「瞬さん……とは、どんな方ですか」 尋ねたところで氷河さんは答えるまい。 私はそう思っていたのですが、案に相違して、氷河さんは私の質問に答えてくれました。 もっとも、彼が私に教えてくれたのは、氷河さんと瞬さんがどういう知り合いなのかというようなことではありませんでしたけれど。 私が尋ねたことに、氷河さんは、 「綺麗な子です」 という答えを返してきたのです。 「あなたより?」 ほとんど反射的に、私はそう問い返していました。 この氷河さんが、よもや自分以外の人間を『綺麗』と感じることがあるなどということは、私には信じられないことでしたから。 氷河さんは、それほど――神は彼に特別の恩寵を与えられたのだと思うしかないほど端正な容貌の持ち主でした。 問い返してから、私は自分が聖職者だということを思い出し、慌てて自分の発した言葉を訂正しようとしました。 神に仕える者が人に対峙した時、第一に気にかけるべきことは、当然のことながら、外見の美醜ではなく内面の――心の美しさのことであるべきですからね。 私が弁解がましい訂正を口にするより先に、氷河さんは確信に満ちた様子で、 「俺なんかよりずっと」 と断言し終えていましたが。 氷河さんがどんなつもりでそう言ったのか――瞬さんの外見のことを言ったのか内面のことを言ったのか――は、言葉のやりとりからだけでは判断できないものでした。 ただ彼の表情から、おそらく、その瞬さんという方は、姿はもちろん、心のありようも美しい人なのだろうと、私は思ったのです。 事実そうだったようです。 氷河さんの言葉と表情は、私の推察を裏付けるものでした。 「目が大きくて、実際より子供っぽく見えるんですが、色々と苦労を重ねてきた子なので、見た目よりずっと大人で――耐えることを知っている人間です」 「その方に伝言でも?」 「俺のことは絶対に知らせないでください。ただ瞬が――幸せそうにしているかどうか、それだけ見てきてほしい」 「幸せかどうか……?」 それは難しい依頼です。 人の幸不幸というものは、他人には――時には本人ですら――判じ難いものですから。 私の懸念がわからないほど、氷河さんは愚鈍な人間ではありません。 2年間彼を見てきた私には、それはわかっていました。 それでも氷河さんは、私にその難しい仕事を頼みたいようでした。 「つらいことがあっても、いつも微笑んでいる子です。だから……よく見てきてほしい」 「その方――瞬さんが不幸でいたなら、あなたはどうするんです」 「何も……何もできません。だが、瞬が幸せでいてくれたなら、俺は安心することができる」 「……」 私は、18歳で修道士になり、信仰生活に政治的制限が加えられることに耐えかねて、母が亡くなった25の歳に、故国を飛び出し、この極東の島国にやってきました。 以後30数年間 この国で主への祈りを捧げ、この教会の主司祭になったのは16年前のことです。 修道士は妻帯は禁じられていますから、もちろん一人身。 修道士になった18の歳以降、恋をしたこともありません。 ですが、だからこそ――10代の頃の我儘なほどに純粋な恋をしか知らないからこそ、私には わかったのです。 瞬さんのことを語る氷河さんの目は、恋する者の目でした。 氷河さんは、その瞬さんという“綺麗な”方を熱烈に恋しているのだと、私にはすぐにわかったのです。 |