“周囲を威圧するような”とヒョウガが感じたのは、彼の出で立ちのせいだったかもしれない。 身につけているものは、手袋以外はすべて黒。 髪も漆黒、瞳も漆黒、背も高い。 黒で包まれた その姿は、新年を祝う人々の明るい色の服や、白と金を基調にした調度の中で、不吉なほどに存在感を感じさせるものだったのだ。 サロンの主であるベルジョイオーソ夫人が、新進気鋭の詩人を放り出して飛んでいったところを見ると、相当の大物らしい。 「誰です」 彼の登場で やっとご婦人方のお喋りから解放されたヒョウガが、カミュの許に歩み寄る。 地獄からの遣いのように静かに、だが隠しようもない存在感をもって現れた黒衣の男に ちらりと一瞥をくれると、カミュは不愉快そうにすぐに横を向いてしまった。 「彼は、確かなものは何ひとつないこの世界で、唯一不変の価値を有していると人々に考えられているものを、このフランスで――いや、欧州で最も多く持っている男だ」 「金ですか」 「残念ながら、そうだな」 カミュは革命前から続く公爵家の当主で、少年時代に革命の洗礼を受けた。 彼の母の妹がヒョウガの父の弟に嫁していたため、一時期一家をあげてロシアに亡命していたこともある。 少年時代のカミュがロシアにいた頃、ヒョウガはまだ乳飲み子にすぎなかったが、カミュは同国人であったヒョウガの母に親しみを覚えたらしく、祖国に戻ってからもずっと大公家との交流を保ち続けていた。 カミュとヒョウガは、血の繋がりのない遠い親戚ということになる。 フランスに恐怖政治を敷いていたロベスピエールが失脚すると、カミュの父は いち早く祖国に戻り、公爵家の復権に努めた。 そのため、慎重もしくは臆病の故に帰国をためらい続けていた他の亡命貴族に比べれば はるかに多くのものを、公爵家は取り戻すことができたのである。 それでも公爵家は、革命で広大な領地のほとんどを失った。 その上、彼が帰ってきたフランスの社交界は、選ばれた人間としての気概を持たない俗物たちに牛耳られていた。 そういう下賎の者たちに支配されている祖国の現状を見るにつけ、カミュは人間というものに失望したのだろう。 最近では、彼は、自身や家門の栄達より学問を好み、書斎にこもって書物を読んでいることが多くなっていた。 「欧州一の大銀行家だ。その欧州一の金持ちが、昨年末ついに妻を迎えた。相手はどこのご令嬢かと思ったら、他に係累のない孤児で、そのお披露目を兼ねているのか、滅多にサロンに顔を出さないあの男が、ここのところ あちこちのサロンに顔を出しているらしい」 俗世への関心を失っているようなカミュが、そんな事情まで知っている。 その一事で、ヒョウガは、黒衣の人物が相当の有名人で大物でもあるのだろうと察した。 「彼自身が出自もわからない謎の男で、万一彼が亡くなったら、彼の莫大な財産はすべて その新妻のものになる。噂の二人だ。名は――ハーデス。通り名だが、誰も本名では呼ばない。冥府の王のように悪運が強く、彼の敵にまわった人物はことごとく命を落としている。事故死、病死、もちろん皆 高齢で、その死に不自然なところはないのだが」 「貴族ではないんですか」 「それもわからない。どこぞの有力貴族の落とし胤いう噂もあるが、このフランスでは、そんなものを振りかざす者ほど下賎の身だ」 革命さえ起きなければ、大公爵であったはずの男が、吐き出すように言う。 現在も、もちろん彼は公爵だったのだが、自ら爵位を誇示するようなことを、彼は決してしなかった。 ナポレオンの時代には、皇帝の知己だというだけで田舎の鍛冶屋が突然伯爵になり、賄賂の使いどころを心得ているというだけで、数日前までパリの下町でパンを焼いていた男が子爵になった。 皇帝ナポレオン自身が、コルシカの山猿と渾名されていた男だったのだ。 爵位の価値は地に落ち、それらは世辞と金で手に入れられるものになった。 ウィーン会議を主催したオーストリアのメッテルニヒ首相や他国の王室の者たちの思惑で、フランスは王政復古が成り、革命期・帝政期を亡命して生き延びた革命前の貴族たちが続々と祖国に帰ってきていたが、彼等はもはやフランスの指導者ではなくなっていた。 彼等の 半世紀は時代遅れのファッションセンスは市民たちの失笑を買い、社交界においてですら彼等の地位は低下していた。 けばけばしいほど優美で華やかなロココの時代は終わったのだ。 社交界は、旧貴族ではなく新興の有産階級が中心になり、より自然を志向した方向へと変化し続けていた。 揺るぎない農奴制によって貴族と非貴族が宿命のように分断され、両者が決して交わることのないロシアでは考えられない事態である。 それが良いことなのか悪いことなのかということについては、ロシアの旧い貴族の家に生まれ育ったヒョウガにも判断できないものだったが。 |