「シュン……?」
気遣わしげに妻の名を呼んだハーデスが、まもなく彼の妻にそんな振舞いをさせている原因に気付く。
それは、シュンに注がれている一つの視線だった。
つまり、ロシアからやってきた異邦人が食い入るようにシュンを見詰めていたのだ。
その視線を怖れるように、シュンは顔を伏せている。
ヒョウガの視線は不躾と言っていいほどに強く、まっすぐに、シュンの上に据えられていた。
ハーデスが、ほんの一瞬 不快そうに眉根を寄せてから、再び 穏やかな、だが隙のない紳士の顔に戻る。

「君のご親戚は、私の妻に一目惚れかな」
「ヒョウガ、どうしたんだ。失礼だぞ。――ヒョウガ!」
カミュに繰り返し名を呼ばれてやっと、ヒョウガは夢の世界から現実世界に戻ってきた人間のように、意識と常識を取り戻した。
「あ……」
ヒョウガのその様子を見たハーデスが、声をあげて笑う。
「いや、大変結構。若く美貌の青年が自分の妻に見とれている様を眺めるのも、なかなかいい気分だ。魅力的な妻を得た男の喜びを実感できる。カミュ殿のご親戚なのであれば、古い家柄の貴族の子弟なのだろうし、近付きになって損はないだろう。君は無駄で不快な時間を過ごしてしまったと考えているようだが、私は今日ここに来てよかったと思っているよ」

「――失礼した」
自分の連れに体裁の悪い振舞いをされた直後だけに、カミュはハーデスの嫌味に気の利いた切り返しをすることができなかったのである。
ハーデスが彼の妻を庇うようにして 他の客人たちの方に立ち去ると、彼は少し苛立ちの混じったような態度で、彼の血のつながらない親戚に向き直った。
「ヒョウガ、何をぼうっとしていたんだ。まさか、本当にハーデスの奥方に見とれていたわけではあるまい? まあ、確かに、ハーデスには不釣合いなほど清純そうで綺麗な子ではあったが」

だからこそ――清らかで何も知らない子供だからこそ――冥府の王は彼女に惹かれ、また彼の妻も冥府の王を包む漆黒の闇を怖れなかったのかもしれない。
そんなことを考えながら、カミュは、ヒョウガの反論と弁解を待っていた。
が、ヒョウガから彼に与えられたものは、彼が期待していた返事――『人妻に見とれていたわけではない』という類のものではなかった。
彼のロシアの親戚は、
「俺がパリに探しにきたのは、彼……彼女です」
と、呟くように言ったのだった。






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