「ハーデス。もう帰ろう。ほとんどの人に挨拶はしたし、同じことを何度も訊かれるのは、もううんざり――ヒョウガ……さん」
その姿を見、その声を聞いた途端、苛立ち爆発しかけていたヒョウガの心が急速にしぼみ、しおれる。
ヒョウガを包んでいた攻撃的な空気が消え去るのを見てとったハーデスは――彼もまた――平生の穏やかな声音を取り戻していた。

「彼に、おまえを金で縛りつけるのはやめろと責められてね」
「……」
苦笑混じりに、ハーデスが彼の妻に告げる。
シュンは沈黙した。
否とも是とも言わず、ヒョウガからもハーデスからも視線を逸らす。

シュンは本当に2年前の二人の出会いを憶えていないのだろうか――?
シュンの作る沈黙に傷付きながら、ヒョウガは、心の中で自問した。
シュンに問えば、シュンはその答えを教えてくれるかもしれなかったが、シュンが“夫”のいるところで真実を語ってくれるかどうか。
シュンを熱烈に恋してはいたが、シュンの人となりを 実は全く知らないヒョウガは、今ここでシュンに その問いを投げかけることはできなかった。

長い沈黙を破って、意を決したようにシュンが口を開く。
そうしてシュンが口にしたのは、ハーデスの妻としての模範解答――といっていいような言葉だった。
「僕は、ハーデスが一文なしになっても彼の側にいるよ。ハーデスにどこかに行けと言われでもしない限り」

ハーデスが、妻の答えに満足したように相好を崩す。
「シュンは本当にこのパリでは珍しいほど貞淑な妻だ。夫を裏切って愛人を作るのが粋とされているパリでは稀有な存在といえる。ヒョウガ殿は若く美貌で血筋も申し分ない。これ以上ないほど見事な愛人になってくれるだろうに」

夫への貞節を明言したシュンは、だからこそハーデスの軽口を不快に感じたらしい。
シュンは形のいい眉をひそめ、夫の戯れ言を“金で買われた妻”とは思えないほど はっきりした口調でたしなめた。
「そういう冗談は、彼に失礼だよ。彼を侮辱する権利はあなたにはないでしょう。――誰にもない」
「最愛の妻を若い男に寝取られるのを怖れている哀れな夫の牽制だ」
「そんなことがありえるはずがないって、わかってるでしょう」
「それはもちろん」
「ありえないことなのか !? 」

ヒョウガが控え室に響かせた悲痛な声――ある意味では非常識すぎる言葉――に、シュンが目をみはる。
一瞬 ひどくつらそうな視線をヒョウガに投げかけてから、シュンはゆっくりと、もう一度 その言葉を繰り返した。
「ありえません」

迷いもためらいもないシュンの答えに、ヒョウガが言葉を失い呆然とする。
では、2年前に明るく暖かい南の国で二人の間に確かにあったと感じた あの運命のようなものは、いったい何だったのか。
自分が今ここにいる理由を完全に否定され、ヒョウガは自失するしかなかったのである。

「アンスロ夫人に暇乞いとまごいをしてくる」
そんなヒョウガの様子を見たハーデスが、ふいに思い出したようにシュンにそう告げたのは、シュンの確固たる拒絶の言葉を聞いた彼が、シュンの夫としての自信を取り戻したせいだったのかもしれない。
自分の妻に叶わぬ恋心を寄せる男と妻を二人きりにしてやる――というのは、このパリでは最も粋とされる振舞いではあった。






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