『もう一度だけ彼に会う機会を作ってやるから、彼に見苦しいところを見せないようにしなさい』
ハーデスにそう言われ、シュンは懸命に食事をとった。
たとえそれが決定的な決別のための最後の出会いの場になるのだとしても――それならば、なおさら、自分はヒョウガの前に毅然とした様子で立ってみせなければならないのだと、自らに言い聞かせて。

そうして用意された会談の場。
「私は、シュンと離婚することにした。私はシュンと一度も同衾していない。我々の婚姻は白い結婚として教会に認められ、婚姻そのものが無効だったことになるだろう」
ハーデスの屋敷の客間にヒョウガが案内されてくるなりハーデスが宣言したその言葉に驚いたのは、だから、ヒョウガよりもシュンの方だった。
ヒョウガが不実な運命の恋人に愛想を尽かし、心置きなく未来に向かって歩み出せる別れの場を完璧に演出しなければならないと、シュンはその日、朝から気を張り続けていたのだ。
ハーデスの言葉は、シュンのその決意と努力を無に帰すものだった。

「ハーデス!」
「仕方がないだろう」
非難の色の濃い声で、妻に――今はまだ――名を呼ばれたハーデスが、苦い微笑をシュンに向ける。
それから、彼はヒョウガの方に向き直り、
「シュンは君が好きで、君を愛せないと死んでしまうというんだ。そして、私はシュンを愛していて、シュンが幸福になるためになら、どんなことでもする」
と言った。

あらゆることが思いがけず、にわかにハーデスの言葉を信じることもできず――それ以前にハーデスの意図が理解できなくて、ヒョウガは軽く頭を振り、シュンの夫――今はまだ――を半ば呆然自失のていで見やることになったのである。
「り……理由がわからない。俺があなたなら、誰がシュンに言い寄ろうと絶対に手放さない。シュンが俺以外の誰かを愛しているのだとしても、絶対に諦めない……!」
ヒョウガの、それが本音だった。
心からの、自分の意思ではどうしても変えられない現実だった。

だが、ハーデスはヒョウガとは立場を異にしていた。
どうあってもシュンを諦めなければならない事情が、ハーデスにはあったのである。
一度長く息を吐いてから、ハーデスはその“事情”をヒョウガに告げた。
「シュンは、公にできない私の実子だ。私が14の時の子供。母は嫁ぐ前のブルノワ侯爵夫人、私は公爵夫人の腹違いの弟だった。つまり……そういうことだ」
「シュンがあなたの――」

――公にできない実子。
美しいこと以外に何も似たところのない、悪魔と天使の、陰と光の、あまりに鮮やかな対比を見せる この二人が、血のつながった親子――。
到底信じることのできないハーデスの言葉に混乱し、ヒョウガはハーデスの顔を見詰めた。
それからゆっくりと、その視線を、ハーデスの彼の隣りに立つシュンの上に巡らせる。
彼の横で、ヒョウガの視線を避けるように、シュンは顔を俯かせていた。

実父と実母が血のつながった姉弟。
ナポレオン以前の欧州最大の英雄アレクサンダー大王の死後、エジプトに築かれたプトレマイオス朝では、それは王家の血の純粋を守るための当然のしきたりだったというが、それはイエス・キリストがこの世界に降誕する前のことである。
現在のフランスでは、それは決して犯してはならないタブーだった。

「不快かね」
ハーデスがヒョウガに尋ねてくる。
ヒョウガは、だが、すぐに首を横に振った。
「シュン個人には何の責任もないことだ」
それでいったら、ヒョウガが恋した相手はヒョウガと同じ男子なのだ。
恋の力の前に、人は抗う力を持たない無力な存在である。
ヒョウガの返答に、ハーデスは静かに頷いた。

「結構。私がシュンと結婚したのは、私の財産を確実にシュンに譲るためだった。私はあまりにも巨大な財を築きすぎてね。その財を僅かでもかすめ取ろうとする者たちは、たとえ私が法的に有効な遺言書を残したとしても、そんなものは平気で無効にするだろう。だが、私の妻として、シュンの権利を社会に認めさせておけば、下種共も滅多なことはできない。他にもっと適切な方法があったかもしれないが、私には敵が多く、正直なところ、自分を長生きするタイプの人間でもないと思っていたので、急いでいた」

「ハーデス、そんなこと言わないで……!」
せっかく巡り会えた父、シュンが愛する権利を持つ唯一の人。
その人に、例え話としてでも早死にの話などされたくはない。
シュンの瞳が潤むのを あえて無視して、ハーデスは、あくまでもヒョウガに対峙し続けた。
「離婚の慰謝料というのも、財産分与の建前になるな。私は、私にできる限りのものをシュンに譲る。だからシュンを――」

シュンは、人を愛するために この世界に存在する。
そのために生まれた。
だが、シュンを愛する者は、シュンを愛しているだけでは駄目なのだ。
シュンを愛する者は、シュンのために自らの幸福を諦めることのできる人間でなければならない。
「君のような若造にシュンを渡すのは不安でならない。悔しくてならない」

それが貴様にできるのかと、ハーデスの闇の色の瞳がヒョウガに迫ってくる。
その時、ヒョウガは初めて気付いたのである。
彼の瞳が闇のように黒いのは、彼がその身の内に、あまりに強く激しく深い愛を凝縮し無理に閉じ込めているからなのだということに。
いつか、自分の瞳もこんなふうになってしまうのかもしれない。
そう思いながら、ヒョウガは彼に頷いた。

「あなたこそ、自分は早死にするタイプだなどと詰まらないことを言って、シュンを悲しませないようにしていただきたい」
生意気な若造の言葉に、ハーデスが肩をすくめる。
これなら大丈夫なのかもしれない――と、ハーデスは少し安堵した。

「ただし、シュンを自由にするにあたって、一つ条件がある」
「なんですか」
あとは、大きな障害を一つ取り除いておけば、シュンは幸福になれるはずだった。
ハーデスはそう思っていた。
厄介な、あの障害――。
「他ならぬ君のご親戚のことだ」
「なに……?」
然思いがけない人物に言及されたヒョウガが、一瞬虚を衝かれたような顔になる。
が、ヒョウガはすぐにハーデスの懸念を理解した。
なるほど彼は難物である。

「彼は、フランスでの彼の爵位を君に譲ることを考えているらしいのだが――。君が今後ロシアに帰るにしてもフランスにとどまるにしても、あの堅物のカミュには、シュンが男子であることを隠し通すこと。今回は恋に悩める親戚のために骨を折るようなことをしたが、あの男は本心では人妻に恋する男などけしからんと立腹しているはずだ。駄目だろう。あの不粋な男に、恋というものが理解できるとは思えない。奴はおそらく一生独身だな。当人もそれがわかっているから、数百年以上続いた公爵家を自分の代で終わらせるわけにしいかないと考えて、君をフランスに呼んだのだろうが――」

だが、もしかしたら彼は今、彼の家を自分の代で終わらせるべきなのかもしれないとも考えている――。
ハーデスの呟きに、ヒョウガは浅く首肯した。
爵位など何の価値も力も意味も持たない時代がこようとしている。
その事実にカミュは気付き、だからこそ今、彼は時代に逆らって殊更尊大に振舞おうとしているのだ。
選ばれた者――貴族――としての、最後の意地を見せるために。

「シュンの件はカミュには言わないでおきます。爵位の件は、俺は何も聞いていないので、何とも――」
「まあ、それはカミュが決めることだ」
自分の進退を自分で決することができないほど、カミュは優柔不断な男ではない。
ハーデスが口を出したところで、あの男は不愉快そうに眉をひそめるだけだろう。
今は、それよりも、まだ若い二人の未来を心配する方が有意義で優先度の高い問題である。

「君が望むなら、爵位などよりもっと有益で有効な――君とシュンの結婚認証を、どこぞの教会から手に入れてやってもいいが――」
とはいえ、あいにくハーデスにできることは、金でどうにかなるようなことしかなかったのだが。
そして、ハーデスの提案にヒョウガからの答えは返ってこなかった。

結ばれることができる――。
昨日まで諦めかけていた未来を互いの瞳の中に見い出した二人は、今は他の何もみえず、他の何も聞こえない状態で、ただ互いの存在だけを認め合っていた。

「まあ、それもどうでもいいか……」
ぼやきも二人に遠慮して控えめに済ませると、ハーデスは静かに若い二人のいる部屋をあとにした。

王政、革命、共和制、総裁制、頭領政府、ナポレオンの帝政、そして王政復古。
僅か20数年のうちに、フランスは、何もかもがめまぐるしく変化した。
地位も金も定まらぬ世。
確かなものはない。
だからこそ人は、不変の可能性を持つただ一つのもの――愛――を求めるのだ。






Fin.






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