その夜、日本国産業環境自主行動計画推進委員会会長――つまりは日本産業界における地球温暖化対策の推進責任者である――の肩書きが増えたばかりで多忙なはずの城戸沙織が、氷河を自室に呼びつけたのは、ウプサラ氷河の再生に努めてくれた彼の労苦をねぎらうため――ではなかった。 確かに、氷河の仕事振りをねぎらうためではあったのだが。 「瞬は?」 「眠っています」 氷河が、日本国産業環境自主行動計画推進委員会会長ではなく、すべての聖闘士を統べる女神アテナに、彼の勤めあげた仕事の報告をする。 「気絶することも許さずに1週間分やりまく……いや、余計なことを何も考えられなくなるくらい疲れさせましたから、今は泥のように眠っています」 言い方を変えても、事実は変わらない。 氷河がパタゴニアからの帰還後すぐに取りかかり、つい先程までの数時間、持てる力のすべてを投入して勤めあげた仕事というのは、つまり、瞬との性行為だった。 「1週間がボーダーライン……ということかしら」 氷河の勤勉に眉をひそめもせず、沙織が呟く。 「 同義語であると同時に対義語でもある二つの言葉を口にしたアテナに、氷河が僅かに表情を歪める。 瞬でない何かが瞬の中に潜んでいることに彼等が気付いたのは、冥界からの帰還を果たした直後だった。 「タナトス? あれはハーデスなのでは?」 「本当の正体は私にもわからないわ。ハーデスの心の残滓なのか、タナトスのものなのかヒュプノスのものなのか、もしかしたら あれは冥界そのものの意思の断片なのかもしれない。いずれにしても、あれが冥界に属する何か、“滅び”につながる何かだということは確かよ。冥界が滅び去ろうとしていた時に、行き場を失って さまよっていたあれが、冥界を脱出しようとしていた瞬の中に入り込んだ――のだと思うわ」 「……」 そんなものが瞬の中に入り込み潜んでいる。 しかも、今 それは、自らの存在を失わずに済んだ恩を仇にして瞬に返そうとしている。 文字通り 命を捨ててハーデスと戦った瞬への報いがこれだというのなら、世界というものは、強く善良な人間にこそ 過酷にできているとしか言いようがない。 叶うことなら氷河は、もう一度冥界に行き、あの世界をあと2、3回ほど破壊し尽くしてきたかった。 「私だって、最初に気付いた時にはびっくりしたわ。部屋には瞬しかいなかったのに、会話が――瞬以外の誰かの声が聞こえるんですもの。その声が、瞬の唇から発せられていると気付いた時には、ぞっとした。最初は分裂症や多重人格を疑ったくらい。――今も少し疑っているわ」 「瞬は、そんな病気ではありません」 氷河の反論を微笑で受けとめて、だが、沙織は彼女の言葉を続けた。 「でも、ああいう闇に属するものは、本来 人間が誰でも持っているものなのだと思うのよ。瞬は、自分の中にあったそれを、成長の過程のどこかで完全に消し去ってしまったようだけど。瞬の心の中にちょうど空き部屋があったから、あれは嬉々として瞬の中に入り込み――そのせいで、地上で最も清らかな人間の心の中に、まるで普通の人間のような闇の部分ができてしまったということだと思うの」 そして、それは瞬に同化しつつあるとでも、沙織は言うのだろうか。 氷河は、彼女の見解はどうあっても容認することができなかった。 沙織は、もし自分の推察が正鵠を射たものであったとしても、最悪の事態を防ぐ方策はあるのだから――と、軽く考えているようではあったが。 「そんなふうにね、希望と絶望の間を 振り子のように行ったり来たりしているのが人間の心というものでしょう。絶望の方に振り切れそうになる瞬の心を抑えることができるのが、あなたとの性行為というのはとんでもないことだけど、今のところ 他に有効な回避手段も見付からないし――」 「何がとんでもないんです。俺の愛の力がそれだけ大きく強いということだ。それに、別に性行為に及ばなくても、俺が側にいるだけでも、瞬は自分を保てます」 「ええ、多分、そうなんでしょう」 どちらにしても、瞬には氷河が必要――人間が自らを保ち、自らであるためには、自分以外の“誰か”が必要なのだ。 「1週間以上は瞬を一人にしないようにするわ。今回のような作業はこれからもあなたに頼む機会が増えると思うのだけど、長期の遠征の時には瞬同伴ね」 「俺としては願ったり叶ったりですが――」 それは氷河にとっては悪い提案ではなかった。 瞬に異質なものが入り込んだ この事態は、何もかもが悪い方向に作用しているわけではない。 「沙織さんは、瞬の中にたまたま空き部屋があったから、あれは瞬の中に入り込んだ――という考えのようですが、俺はそうは思っていないんです」 「あなたはどう思うの?」 問われて、しばしためらい――その推察は氷河自身にとってはあまり楽しいものではなかったので――、やがて氷河は渋々 自身の考えを口にした。 「瞬は、滅びかけた冥界で 消えそうな状態で さまよっていた“あれ”を かわいそうに思って、自分から受け入れてやったんじゃないかと、俺は思う。瞬は……馬鹿みたいに優しいから」 「あなたを受け入れてしまうくらい優しい?」 沙織がどういうつもりで そんなことを問うてきたのか、心当たりがあまりに多すぎて、氷河は咄嗟に彼女に答えを返すことができなかった。 同性で、独断的で、直情的で、実力もないくせに瞬より優位に立ちたがる我儘な男――を微笑んで受け入れてくれるくらい、瞬は優しいのだ。 きまりの悪い表情になった氷河に、沙織が意味ありげな笑みを向ける。 「私は、あまり心配してはいないのよ。あなたの言う通り、瞬は優しいから――優しくて強いから、瞬はあんな闇には負けない。瞬は一人きりではなくて、あなたや仲間たちがついているのだから、負けようがないでしょう。あの闇は、いずれ光に屈し、瞬の中に呑み込まれてしまうだけだと思うわ」 「――この星は花のある星だ。瞬にはちゃんと美しいものが見えている。だから大丈夫だと、俺も思っています」 図々しい冥界の残滓への怒りはまだ残っているようだったが、そう告げる氷河の声に不安の響きはなく、その声は確信に満ちてもいた。 「ええ。この星は美しいものがあふれている星だから、瞬は大丈夫よね」 そう断言できることが嬉しくてたまらないと言うかのように、沙織もまた余裕を含ませた瞳を輝かせて、氷河に頷いてみせたのだった。 数日後、瞬の許には、氷河がパタゴニアで撮ってきた雪割草の写真を30センチ大のパネルにしたものが届けられた。 『綺麗なものを見て、元気を出してね』という沙織からのメッセージと、もう一枚、雪割草のパネルの5倍の大きさの氷河のポートレートパネルと共に。 「わあ、氷河のポスターだ!」 氷河は全力をもって瞬の暴挙を阻止しようと努めたのだが、彼の奮闘は空しく終わった。 瞬は嬉々として氷河の写真を自室の壁に飾り、星矢たちに悪趣味とののしられつつ、毎日その写真をうっとりと眺める生活を始めてしまったのである。 この星には美しい花が咲いている――美しいもので満ちている。 “美しい”氷河の写真ほどには瞬の心を捉えることができなかったのか、瞬に絶望を誘う声は、徐々に力を失い、いつのまにか消えてしまったようだった。 Fin.
|