スプーン一杯の幸せ






真に幸福な人間というものは、自分が蔑まれ、侮辱されても平然としていられるものだと思う。
優れた頭脳を持っている者、人に羨まれるような容姿を備えている者、経済的に裕福なもの、家族や友人等の人間関係に恵まれている者、人に真似できない技術を有している者、あるいは腕力に優れている者。
人間はそういった色々な要素を自分の強みにし、そこにプライドをかけて、自分の生には意味があると思おうとするものなんだろうが、そんな事柄の何にも増して、“幸福である”ということは、その人間の強みだ。

そして、そんなふうに真に幸福な人間は、実は自分のことは あまり気にかけない。
その必要がないからだ。
自分は幸福なんだから、気に病むようなことは何もない。
周囲の人間が自分をどう評価していようと無関係。
彼(彼女)は自信に満ちている。

だが、たとえば自分の愛する者を侮辱され貶められたら、彼(彼女)は激怒するだろう。
自分自身は幸福で怖れるものも何もないから、何をためらうこともなく、愛する者を侮辱した相手を憎む。
幸福な人間というのは、そういうものだ。

してみると、俺は実は存外に幸せな人間だったのかもしれない。
父の顔を知らず、母の命を自分のせいで失い、望んだわけでもないのに聖闘士なんてものにさせられて、それでも。
俺は、自分が虐げられることには 全く平気だった。
普通の家庭だの普通の人生だの、そんなものに憧れたこともないし、人間がどんな境遇で 自分の人生を生きることになったって、たかだか数十年。
陳腐な例えだが、それこそ夜空に輝く星から見れば、一国の大統領として人々におだて持ちあげられて生きる一生と、家も持たない浮浪者として人々に哀れまれて生きる一生に、何の違いもないだろう。

だから、俺は幸福な人間だったんだと思う。
あの忌々しい鳳凰座の聖闘士に不愉快な技をかけられて、腐れただれる母の姿を見せられるまでは。
あの技に衝撃を受けて、俺は奴を憎むことになった。
その時まで――あの技を食らうことになる直前まで――、俺は奴を憎んではいなかったんだ。
尋常でない憎悪が込められた拳を、奴に向けられている時にも。
いったい奴は何にそんなに腹を立てているのかと、怪訝に思ってはいたが。

死は厳粛な儀式だ。
誰にでも平等に訪れ、人のすべての醜さを浄化し、死が始まった瞬間から、生きている者たちは 亡くなった人を美しく感じるようになる。
もちろん、その心の作用には、死んでしまった者を憎んだり貶めたりしても何も得られるものはないから――という理由もあるんだろうが、命を失い もはや生者の記憶の中にしか存在しなくなった人間は、生きている人間が囚われるすべての欲から解放された、いってみれば霊的存在だから――というのもあるんじゃないかと思う。
人は死ぬことによって地上のくびきから解放され、真の美しさに至ることができるようになるというわけだ。

死んでしまえば、そこいらの俗物でさえ『いい人』と評されるようになるんだ。
まして俺のマーマは、自分以外の人間のために――俺のために――我が身を犠牲にして死んでいった無我の人だ。
天上の神だって、マーマには、ダンテが永遠の淑女として描いたベアトリーチェなんかより高位の天使の座を与えるだろう(俺はダンテという男は嫌いだが、亡くなった恋人を神格化したいという奴の気持ちはわかるような気がする)。
マーマは死んだ者が辿る常として、俺の中で天上の存在となり、理想化され神格化されていた。
それを、あの鳳凰座の聖闘士は醜悪なものが闊歩する地上に引きずり落としたんだ。
天上に在った美しい人に地上の法則を当てはめ、腐れ爛れる肉塊にした。

俺は、あの禍々しいビジョンを見せられた衝撃を、時が癒してくれることを期待していた。
時が忘れさせてくれるものと思っていた。
だが、どうしても忘れられない。
敵と命を賭けた戦いをしている最中にも、あのビジョンはふいに俺の脳裏に現れて、俺を苦しめた。
その記憶を振り払うために俺は暴走することになり――それがいい結果を生むこともあれば、悲惨な結果を生むこともあった。

一輝には一輝の事情があったことがわかっても(俺にはただの逆恨みとしか思えなかったが)、俺はあのビジョンを忘れることができなかった。
理性はとうに一輝を許している。
だが、奴の作った醜悪なマーマの姿を、俺はどうしても忘れることができない。
忘れようと思うほどに、それは俺の脳裏に鮮明に浮かび上がってくる。
理性や知性ではなく、感情や感覚――感性――の次元の問題なんだ、これは。
感情をどうにかしなければ 感情を理性に同化させなければ、俺の心に平穏は訪れない。

それで、俺は奴に復讐することを思いついた。
俺が味わったのと同等の苦痛を奴に与え、そうすることで俺の苦しみを相殺する。
そうして俺の気が済めば、俺の中に いつまでも抜けない棘のように居坐り続けるあのビジョンは消え去るだろう。
そう、俺は思った。

ターゲットは、奴の最愛の弟とかいうやつ。
一輝自身を痛めつけても、奴は本当に苦しみはしないだろうから、それは無意味。
俺が俺のマーマを貶められることで衝撃を受け苦しんだように、一輝も 俺に貶められ傷付く弟を見て苦しめばいい。

これも逆恨みだということはわかっていたが、そうでもしなければ、死んで天上にある身を汚され貶められた人間の屈辱は晴らされない。
せめて俺が彼女のために復讐を果たさなければ、不幸で美しかったあの人があまりにも哀れだと、俺は・・思った。






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