聖域のある場所から いちばん近い町までは、“一般人”の足で歩いて丸一日の距離がある。
氷河が 朝早くに聖域を出て町に向かい 砂糖漬けの果物を調達してきたのは、兄が弟を放っておくというのなら、この問題が片付くまで、せめて他人が瞬の心細さを紛らせてやろうと考えたからだった。

昼過ぎ、氷河が聖域に戻ってきた時、瞬は教皇の間に続く石段の中腹に心許なげな様子で座り込んでいた。
そこからは双魚宮の薔薇園が一望できる。
部外者が聖域内を勝手に歩き回ることもできず、かといってアテナからの連絡を待つこと以外にできることもない瞬は、ひどく手持ち無沙汰でいるようだった。
何もすることがないと、人はよくないことばかりを考える。
氷河は足早に石段を駆け上り、町で調達してきた砂糖漬けの果物が入った小さな籠を、瞬の前に差し出した。

「食え。夕べは眠れたのか」
「え……? あ……ありがとうございます。あの――」
聖衣をつけていないと、小宇宙を感じ取ることのできない“一般人”には、それが聖闘士なのか神官なのか、あるいは下働きの者なのかの区別すらできないのだろう。
問いかけるような瞬の眼差しに応えて、氷河は自分の名を名乗った。
「氷河だ。白鳥座の聖闘士」
「白鳥座の聖闘士……の氷河さん」
しばらく自分の手の中に収まった小さな籠の中のものを見詰めてから、瞬がその顔を上向かせる。
聖闘士なるものと口をきくのは、これが初めてなのだろう。
その瞳には、少なからぬ戸惑いが混じっていた。

氷河自身、昨日は距離を置いたところから瞬の横顔を眺めていただけだったのだが、こうして改めて間近で見ると、瞬は実に美しい――清浄で美しい――少年だった。
砂埃にまみれていた旅の衣装を こざっぱりとした軽装に変えて佇む その様は、それこそ花にも例えたいほどである。
何より、瞳の澄み方が尋常ではない。
一輝を花や雪に例えていたが、瞬自身がまさに可憐な花の風情と誰にも汚されたことのない雪の風情を併せ持っているのだから、血の繋がった兄が自分に似ていると瞬が思い込んでも、それはさほど突飛な妄想ではないのかもしれない――と、氷河は思った。

瞬の、その澄んだ瞳に自分の姿が映る。
氷河は、瞬に見詰められている自分までが澄んでいくような錯覚に捉われた。
やがて、瞬のその瞳が伏せられ、花びらのような唇から小さな溜め息が洩れる。
氷河は、瞬が何かに落胆したのだと思い、少し慌てた。
一輝の言葉を鵜呑みにして手に入れてきた手土産が子供じみていたのかと、軽く舌打ちをする。

「こういうのが好きそうだと思ったんだが」
「あ、はい。あの――」
瞬が、再び顔をあげる。
それから瞬は、今度は氷河の顔をじっと見詰め、口許に微かな笑みを刻んだ。
「なんだ」
「アテナは美しい人だけを自分の聖闘士に選ぶって、本当なんですね。僕の兄さんも、氷河さんみたいに綺麗な人なのかな」
「……」
一輝本人を見知っている氷河としては、瞬はやはり夢を見すぎていると思わざるを得なかった。
が、今は一輝の話などしたくない。

「――氷河だ」
「え?」
「氷河でいい。俺も瞬と呼びたい」
「はい」
瞬は、一輝の言っていた通りに、今も杏の砂糖漬けが好きらしい。
籠の中から杏を一つ摘み上げ、ひと口だけかじると、瞬はまた小さく一つ溜め息をついた。

瞬の溜め息ひとつひとつに、氷河の心は過剰に反応してしまう。
好みの味ではなかったのかと、氷河は懸念したのだが、そうではなかったらしい。
瞬は全く別のことを考えていたようだった。
「アテナの聖闘士って、地上の平和を守るために命を懸けて 人の世界に脅威を与える敵と戦っている――ですよね。あの優しかった兄さんに、本当にそんな危険なことができるのかって、僕……」
瞬は、花のように優しい兄が、邪悪のものとはいえ人を傷付ける行為を為しているということが信じられずにいるらしい。

「正義とか地上の平和とか――それらが大事なものだということはわかるんです。でも、それは肉親よりも大事なものでしょうか。10年間も家族と離れていても平気なほど――」
瞬は、よくも悪くも普通の人間――人間として普通なのだろう。
瞬は、人を傷付けることを恐ろしいと感じ、肉親の情愛を大切なものと信じている。
人間としての氷河は、瞬の心がわかりすぎるほどにわかり、聖闘士としての氷河は、瞬にアテナの聖闘士の戦いを理解してほしいと思った。

「平気なわけがない。愛する者の生きている世界を守りたいから戦うんだ、アテナの聖闘士は。おまえの兄もおまえのために戦っているんだと思う」
「そう……なのかな」
一輝が何のために戦っているのか――を、氷河は知らなかった。
知りたいと思ったこともない。
だが、今だけは、彼の戦いが瞬のためのものであってほしいと、彼は心から願ったのである。
それで、少しでも瞬の心が慰められるのなら――と。

「まあ、俺みたいに天涯孤独の奴も多いんだがな。俺は、たった一人の肉親だった母が亡くなったから、ここにきた。他に守りたいと思えるものがなかったから、地上の平和でも守ってやるかと、結構いい加減な気持ちで聖域に来たんだ」
アテナの聖闘士といっても、それは特別な存在ではない。
崇高な理想を掲げて戦っている聖闘士ばかりでもない。
『聖闘士にでもなるか、聖闘士にしかなれない』程度の気持ちで、聖闘士稼業をしている者もいる――ということを知らせるつもりで、氷河は瞬にそう告げた。
瞬が、そんな氷河に切なげな微笑を向ける。

「お母様の生きていた世界を守るため? 氷河……は、お母様をとても愛してらしたんですね」
氷河の中にある“崇高な”肉親への愛を読み取ることは、瞬には容易なことだったらしい。
図星をさされて、氷河は我知らず息を呑むことになってしまったのである。
そして、氷河もまた同時に瞬の心がわかった。

瞬は、生まれてすぐに実の母を亡くし、一輝の母には負い目を感じながら生きてきたに違いない。
ただ愛したいと願い、にも関わらず、ただ愛することのできなかったもの、それが瞬にとっての“母”なのだろう。
だからこそ、瞬は“母なるもの”への感じ方が繊細で深いのだ。
瞬が氷河に向けてくる微笑には、憧憬と羨望が含まれている。
瞬のその寂しげな微笑が、氷河の胸を打った。






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