「何を騒いでいるんだ」
星矢の大声に迎えられた元凶は、少なからず驚いたような表情を浮かべ、それでいてどこか呑気な響きのある声で、まずそう言った。
言ってから、かなり苦しい体勢で背中に両腕をまわしている星矢に、怪訝そうな目を向ける。

「おまえの凶暴で乱暴な瞬が、か弱くて可愛い俺に殴る蹴るの暴行を働いてるんだよ! どうにかしろよ、おまえの躾がなってないからだぞ!」
形容詞 及び形容動詞は、いついかなる場合でも、その言葉を用いる人間の主観によって選択・採用される。
星矢が瞬を『凶暴』と形容するのも、自分自身を『か弱い』と形容するのも、星矢の勝手といえば勝手、自由といえば自由だろう。
それが余人に妥当な形容と認められるかどうかは、別次元の問題になる。

しかし、氷河が、
「おまえが何か悪さをしたんだろう」
と決めつけるのは、明確な証拠のない憶測であり、先入観による冤罪を生む危険を伴う、ある意味では非常に不当な評価だった。
当然、星矢は我が身に降りかかってきた濡れ衣を振り払うべく、口角泡を飛ばすことになったのである。

「か弱くて可愛い この俺が、どうやって この凶暴な瞬に悪さができるって言うんだ! 俺はただ、瞬のナニが小さ――」
バキッと、瞬の攻撃は今度もしっかり音がした。
指を組んでひとまわり大きくなった瞬の拳が、背後から星矢の首にめり込んでいる。

「氷河の前でも手加減なしかよ!」
星矢の怒鳴り声は更に大きくなったが、それは視点を変えて見れば、瞬の攻撃は星矢が大声をあげることができるほどのダメージをしか彼に与えなかった――ということである。
瞬は一応、加減はしたのだ。

「瞬がここまで怒るのは余程のことだぞ。おまえ、いったい何をしたんだ」
「瞬の方が悪いとは思わねーのかよ!」
背後から仲間に攻撃を加えた瞬の卑怯を その目で確かに見たはずの氷河のその言葉に、星矢は当然クレームをつけた。

が、氷河には星矢のその訴えの方が意外なものだったらしい。
ほんの数秒間沈黙を作ってから、彼は、
「無理を言うな」
と、か弱い天馬座の聖闘士に軽い微笑を向けながら答えた。

日頃の言動がものを言うのか、あるいは氷河は瞬への恋に盲目になっているだけなのか、その判断は星矢にはできなかったが、そんな星矢にもわかる ただ一つのことがあった。
氷河は、いついかなる時も瞬の味方なのだ。
氷雪の聖闘士がどういうつもりで瞬に『かわいい』と繰り返し告げるのか、その真意はともかく、氷河は瞬の善良を絶対的に信じている。
この二人のことをあれこれと心配することは、不必要であるがゆえに無意味かつ無駄。
そんなことのために痛い思いをするのも 痛がっている振りをするのも馬鹿らしい気分になって、星矢はどさりとソファに我が身を投げ出した。

そんな星矢になり代わって紫龍が、瞬らしからぬ振舞いの原因になった瞬の迷いを 氷河に知らせる。
「瞬は、おまえに『かわいい』と言われるのが つらいんだそうだ」
「なに?」
「自分はおまえに『かわいい』と言われるほど可愛いわけではないから、『かわいい』を連発するのをやめてほしいと、瞬は言っている」
「……」

瞬が凶暴だと言われること以上に、瞬が可愛くないという意見は(それが瞬自身の主張であったにしても)、氷河には意想外のことだったらしい。
そんな望みを望んでいるという瞬を 氷河はまじまじと見詰め、彼の視線の先で、瞬はもじもじと、見るからに きまりの悪そうな素振りと表情を呈することになった。
まさか紫龍がこの場で氷河に直接 その事実を告げるようなことをするとは、瞬は考えていなかったのだろう。
瞬はいかにも言い訳めいた口調で、紫龍の言葉に補足説明を加えた。

「ぼ……僕はよちよち歩きの小犬じゃないし、あの……女の子でもないし、別に男らしいなんて言ってほしいわけじゃないけど、僕に『かわいい』って言うのは、あの……不適切だと――」
この事態は瞬には本当に想定外のものだったらしい。
心の準備ができていなかった瞬は、場を取り繕おうとして ついうっかりと本音を洩らしてしまった――ようだった。

突然出てきた、それらの単語。
女の子・・・でもないし』
男らしい・・・・なんて言ってほしいわけじゃないけど』
瞬が不用意に洩らしてしまったそれらの言葉に触れることによって、紫龍はやっと瞬の不安が真に意味するところを理解することができたのである。
瞬は、『かわいい』を女の子への褒め言葉だと思っているのだ。
ベッドの中で氷河にその言葉を繰り返されたら、どれほど可愛くても女の子ではない瞬の心の中に不安が生じるのも当然――なのかもしれなかった。

「俺は 世の中におまえ以外にかわいいと感じるものがないから、おまえに その使用を禁じられると、一生その言葉を使えなくなるな」
瞬の不安がわかっているのかいないのか――氷河は その形容詞の使用をやめる気はないようだった。

氷河は これまで瞬に対して『かわいい』なる言葉を相当頻繁に使用していたのだろう。
そして、瞬は、そのたびに氷河の言葉に傷付いていたらしい。
氷河にあっさりと要求を拒まれてしまった瞬は、途端に泣きそうな顔になった。
ここで泣くのは無益と思ったのか卑怯と考えたのか、瞬は懸命に唇を噛んで涙をこらえている。
だが、その努力が長く続かないことは誰よりも瞬自身が承知していただろう。

「か……かわいいなんて、そんな言葉、それこそ、そこいらへんにいる女の子にでも言ってあげてればいいんだ!」
瞬が本気でそんなことを望んでいるのだと思うことはできなかった――瞬の仲間たちの誰にも。
瞬は涙をこらえるために――あるいは隠すために、自分の手の代わりに攻撃的な言葉を用いたのだろうと 瞬の仲間たちは思ったし、事実もそうだったろう。
ともかく瞬は その唐突とも思える捨てゼリフだけを残してラウンジを出ていった。
瞬の癇声にあっけにとられている氷河を、その場に残して。
瞬がいかに『かわいい』なる言葉に対して微妙かつ執拗なこだわりを抱いているのかということは、言ってみれば舞台に途中から登場した氷河には理解し難いものだったのだろう。

星矢が紫龍に耳打ちする形で、
「何なんだ?」
と尋ねたのは、これがどう見ても どう考えても痴話喧嘩としか思えなかったから、だった。
紫龍がごく普通のボリュームで(氷河にも聞かせるために)答える。
「おそらく、氷河がいつ他の女の子に『かわいい』と言い出すんじゃないかと、瞬は不安なんだろうな」
「ああ、そういうこと」

それならそうと最初から率直かつ単刀直入に相談してくれていれば、それにふさわしい慰撫と励ましの言葉をプレゼントしてやったのに――と考えながら、星矢は紫龍の導き出した結論に合点した。
星矢にしてみれば、それは馬鹿げた不安であり不要な心配だったのだが、恋をしている“かわいい”人間というものは、そんなふうに心が揺れるものなのかもしれない。
何があっても自信家になどなれそうにない瞬なら、そんな不安に捉われることもあるのかもしれない。
――と、星矢は思った。

「おまえを好きだからこその情緒不安定なんだろう。可愛いもんだ」
紫龍が氷河に告げた言葉に同感し、星矢が頷く。
そうしてから星矢は、苦笑しながら両肩をすくめた。
「あんな作りの顔をして、あんなふうに泣きそうにしてみせて、それで『かわいい』って言われたくないなんて――」
『我儘だよなー』と言いかけた星矢は、直前でその言葉を喉の奥に押しやることになった。
彼は、あの瞬の様子を表現するのにもっと適切な言葉があることに気付いたのである。

瞬がその場にいなかったのは幸いなことだったろう。
星矢が思いついた言葉は、
「ほんと、かわいいよなー」
というものだったので。






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