冥界で、氷河は、瞬を見失い、仲間たちを見失った。 冥界にやってきたアテナの聖闘士たちの目的はただ一つ。 人の生きる地上を死の世界に変えようとしている冥府の王を倒し、人の世の存続を図ること。 その目的を果たすために冥界にやってきた彼の仲間たちは皆、冥府の王ハーデスのいる場所に向かっているだろう。 そこに辿り着きさえすれば、氷河は仲間たちに再会できるはずだった。 仲間たちを信じている。 自分たちは必ず冥府の王の前で再び出会うことができる。 そう思うことができるが故に、氷河は、ただ一人きりの冥府行に不安を覚えてはいなかった。 ただ瞬の身を心配することだけはやめられない。 瞬は彼にとって仲間であるだけのものではなかったから。 が、それだけではない。 氷河は何か言葉では言い表し難い、不吉な予感のようなものを覚えていたのだ。 瞬の小宇宙を感じ取ることができなくなってから、かなりの時間が経っていた。 「ここは……この建物は何だ?」 それまで、海のように広い河と険しい岩山や断崖しかなかった冥界の光景が、ふいに大きな変化を見せる。 見渡す限りの地平――地平線を見ることができるほど広い平地。 そして、氷河の目の前に現れたのは、小さな石造りの館だった。 まるで囚人を閉じ込めておくための石牢のような。 まさかこの世界の支配者がこんなこじんまりとした建物の中にいるとは思えなかったのだが、氷河は冥界に来てから、人が暮らすことのできるような建物を見るのはこれが初めてだった。 だから、ハーデスの居場所を知る者がこの館にはいるのではないかと、彼は期待したのである。 石の建物の扉は銅でできていた。 重い扉を押し開くと、そこに、冷たい石で囲まれた空漠とした部屋が一つ出現する。 その部屋の中央に瞬がいた。 瞬は、聖衣を身に着けていなかった。 白い一枚布でできた膝丈ほどの貫頭衣で身体を包み、石の床にぼんやりと座り込んでいる。 小宇宙は感じられず、それどころか、聖闘士としての覇気、人間としての生気も失せているように、氷河には思われた。 奇異に思ったが、瞬であることに間違いはない。 華奢な手足、白い肌、色素が薄くやわらかい髪――と、いつも人の心をまっすぐに見詰める大きな瞳。 それらは間違いなく瞬のもので、瞬は時折思い出したように瞬きを繰り返していた。 氷河は、何よりもまず、瞬が生きていることに安堵したのである。 「瞬!」 駆け寄って抱きしめる。 それは、『一切の希望を捨てよ』と刻まれた冥府の門をくぐり抜けてから、氷河が冥界で最初に出合った希望だった。 抱きしめた瞬の身体は、氷河がいつも抱きしめている瞬のそれと同じように温かく、そして細かった。 「無事だったんだな。おまえの小宇宙が感じられなくなったから心配していたんだ」 「あ……」 彼――オリジナル――は、人に抱きしめられたのは、これが初めてだった。 この行為にはどういう意味があるのかと、しばし悩む。 自分の身体を抱きしめている者から害意の類を感じ取ることはできなかったので、彼は、その他者を“敵ではないもの”と判断した。 金色の髪、青い瞳。 まっすぐで気遣わしげな眼差し。 彼は、それらのものを美しいと思った。 これが醜悪な人間のはずがない――と。 「あなたは誰。ハーデスの使いの人? 今日は変なことばかり起こる。あの影のような女が口をきいたし」 「何を言っているんだ。俺だ。氷河だ。おまえの聖衣はどうしたんだ?」 「聖衣……」 “聖衣”という言葉は以前聞いたことがある。 ごく最近、ハーデスがアテナの聖闘士というものに言及した時。 質問することは許されていなかったので詳しく聞くことはできなかったが、ハーデスに敵対する女神に従う者たちが身にまとう鎧のようなもの――と、彼は理解していた。 では、彼はハーデスの“敵”なのだろうか? 「瞬、しっかりしろ。俺がわかるのか」 「あ……わかる――ような気がする」 ハーデスの敵が冥界に来ていると、影のような女が言っていた。 時折自分の様子を見にやってくるその女を、彼は人とも神とも認識していなかった。 彼女は彼の前で言葉を口にしたことがなかったので、彼は、彼女を、ハーデスが遣わした影のようなものだと思っていたのだ。 もちろん、彼女に名があると考えたこともない。 その黒衣の女が、初めて彼の前で口にした言葉。 「ハーデス様の敵が冥界に来ている」 その言葉を聞いた時――つい数刻前――、彼は彼女が人間であることを知ったのである。 おそらく、彼女はこの館の中で言葉を使うことをハーデスに禁じられていたのだろうと思った。 ハーデスの魂の器となるべき者を、人間性というものに触れさせないために。 彼女はよほど慌てていたものらしい。 彼がいつもと変わらぬ様子でこの部屋にいることを確かめると、彼女は、自分が禁じられている言葉を発してしまったことに気付いたふうもなく、そそくさと この石の館を出ていった。 「わかるような気がする……って」 これが瞬でなく星矢であったなら、自分の目の前にいる者は寝ぼけているのかと、氷河は疑っていただろう。 しかし、そんな呑気な大胆さを、氷河が知る限り、瞬は持ち合わせていなかった。 もしかすると瞬は一度ハーデスと拳を交えたのかもしれない――と、氷河は思ったのである。 そうしてハーデスを倒すことができなかった瞬は、冥府の王に聖衣と共に抵抗心を奪われて、この空間に捨て置かれたのかもしれない――と。 「瞬、しっかりしてくれ」 肩を揺さぶられてもぼんやりと虚空を見詰めているだけの瞬に、業を煮やしてキスをする。 それで瞬が目覚めてくれるかもしれないと、氷河はおとぎ話のようなことを考えたのだった。 おとぎ話というものは、どうして馬鹿にできたものではない。 戦いのない時にはいつも触れている甘くやわらかい唇。 氷河が唇を離すと、瞬は自分の唇に手を当て、僅かに瞳を見開き、この石の館の中で初めて感情めいたものを見せてくれた。 氷河は、瞬に反応のあることを認めて、ほっと安堵したのである。 「聖衣を奪われたのか」 ハーデスの支配する冥界で、アテナの血を受けた聖衣なしで瞬は戦うことができるのか。 別の懸念が、氷河の中に生まれてくる。 「おまえの小宇宙だけが遠くに運ばれ 消えてしまったから、ハーデスと接触したのかもしれないとは思っていたんだが、聖衣を奪われていたとは」 だが、氷河は、それである程度 状況を把握することができた――できたつもりになった。 アテナの聖闘士を守るアテナの血。 それを奪われると同時に、瞬はその小宇宙までを失ってしまった――発揮することができなくなってしまったのだと考えれば、辻褄が合う。 その推測が示すものは冥府の王の力の強大さで、それはアテナの聖闘士にとっては あまり楽しいものではなかった。 が、とにかく、こうして瞬と出会うことができたのだ。 「生きていてくれさえすれば、それでいい」 氷河はもう一度、瞬の身体を抱きしめた。 |