俺はなぜあの時、俺も城戸邸ここに残ると言わなかったのか。
でなかったら、瞬に一緒にシベリアに来てくれと。
それが、俺は不思議でならない。

自信がなかったのかもしれない(だが、だとしたら、何に対しての自信だ?)。
あるいは逆に、俺がそうしたいと望めば、いつでも瞬を自分の許に呼び寄せられるという自信があったからだったのか。
瞬が城戸邸に残っていてくれるのなら、俺はいつでも瞬の許に帰ってこれるのだという安心感のようなものもあったかもしれない。

俺たちがアテナの聖闘士でいられた頃、俺と瞬はほぼ毎晩 互いを貪るように身体を交えていた。
いや、そんな持って回ったような言葉を用いるのは馬鹿馬鹿しい。
要するに、俺たちは毎晩一緒に寝ていた。
互いの欲望を――肉体的な欲望と精神的な欲望と、いや、欲望だけでなくすべてを――互いに吐き出し合い、ぶつけ合っていたんだ。
ためらう瞬を誘ったのは俺の方だったが、それを覚えると、その夜から 瞬は――瞬の身体と心は――その行為を、人が生きていく上での非常に有効な行為の一つと認めるようになった。
瞬は、セックスのパートナーとしては最高だった。

アテナの聖闘士同士――俺たちは、明日死ぬかもしれないという思いを共に抱いていた。
自分たちが生きていることを確かめるために、俺たちは言葉を交す時間も惜しんで、夢中で抱き合った。
命を懸けた戦いを戦っているからこそ、俺たちは死を恐れていた――のだと思う。

セックスは死に似ていた。
快楽が過ぎると、自分を失う。
生も死も、セックスの快楽の前には意味を失う。
瞬の中に沈み込んでいる間、俺は意思も意識も持たない感覚だけでできたものになり、自分が生きているということ、死すべき存在だということを忘れることができるんだ。
自分を失い、自分の生を忘れること、イコール“死”だ。
俺たちは、毎晩小さな死を経験することで、最悪の事態――現実の、真実の、肉体的精神的な死――を免れることができるような気になっていたのかもしれない。

俺は瞬に『愛している』と言ったことさえなかった。
初めて瞬とその行為に及ぼうとした時、俺が瞬に言った言葉は、あろうことか、
「このまま死んでもいいという気持ちにさせてやるから」
だった。
実際瞬はそういう気持ちになったらしく、俺とのセックスが大いに気に入ったらしい。

抱き合っている時に『好きだ』くらいのことは言ったことがあったかもしれないが、それも『かもしれない』程度。
もし俺がそんなセリフを口にしていたとしても、俺が『好き』なのは瞬とのセックスで――少なくとも瞬はそういう意味に受け取っていただろう。
それを否定するつもりはない。
俺は、実際に、瞬と身体を交える行為が好きだった。
それなしでは生きていけないと思うほどに、好きだった。

あの目も眩むような肉体の快楽と官能の刺激。
瞬の外見が清純であればあるだけ、俺を求める瞬の貪欲は俺を奮い立たせた。
熱く、温かく、強く、執拗。
俺に貫かれ、悲鳴をあげて のたうつ瞬のなまめかしさ。
乱れ喘ぎ、浅ましい言葉を口走ってしまったあとに、瞬が見せる羞恥と後悔の表情。
それでも もっと俺を欲しがって疼き身悶え続ける瞬の身体と心の欲深さ。

俺が瞬を欲しがる時、瞬がその気になっていないことは まずなく、いつも拒む振りだけは見せるくせに、瞬はいつも最後には 自分の中で俺を果てさせることに夢中になっていた。
俺が瞬を自分のものにしたのではなく、瞬に捕まったのは俺の方なのだと、そのうちに俺は気付いた。
それでも、構わなかった。
瞬はいつも、快楽と激情の他に、癒しと安心感と深い眠りを、俺に与えてくれた。
瞬とのセックスは、戦いを忘れるのに最適の行為だった。
いや、俺がいつ命を失っても不思議ではない戦いを戦わなければならないという事実を忘れさせてくれる唯一のことだった。

敵の断末魔、流した血、失われた命と心、敵にも友や家族がいただろうという無意味な憐憫、そして 悔恨。
瞬と身体を交えていなければ、それらのことを忘れて眠ることは、俺にはできなかっただろう。
瞬も、同じだったに違いない。
戦いで死を見たあとには特に、俺を求める瞬は激しかった。
キスも愛撫もいらないから俺をくれとねだられ、そうしてやった夜も少なくない。
瞬は、俺によって犯され傷付く自分を求めていたのかもしれない――自分が傷付きたかったのかもしれない。
その苦痛に耐えることが贖罪になればいいと、愚かな錯覚にすがっていたのかもしれない。
最後には、淫らがましく喘ぎながら、肉体の快楽に恍惚としてしまうにしても。

瞬は花が散ることにも死の影を見い出して、急に昼間の屋外で俺を求めてくることさえあった。
俺が聖闘士でなかったら、瞬の恋人は 瞬に精を吸い尽くされて憔悴し死んでしまっていたかもしれない。
それほどに、戦いと人の死を恐れる瞬の欲望は強く激しいものだった。
俺の方から瞬を求めることの方が、頻度としてはずっと多かったことは認めるが。


あれは愛だったのかと問われても、俺には答えられない。
ただ、瞬がいなければ、俺は生きていることも狂わずにいることもできなかっただろうとは思う。

俺が城戸邸に留まることも、瞬に一緒に来てくれと言うこともできなかった理由。
それはおそらく、自分が瞬を愛しているのかどうかを俺が知らず、自分が瞬に愛されているのかどうかを俺が知らなかったからだ。
聖闘士でなくなって、戦う必要がなくなっても、俺たちはあれほど強く互いを求め合っていられるのかどうか――俺にはそれがわからなかったんだ。

そして、俺が瞬と共にいることをためらった もう一つの理由。
俺たちがアテナの聖闘士でなくなった夜。この世界から神々の気配が消え去り、沙織さんも一人の少女になったその日、この地上では一つの戦いが――戦争が始まった。
神と人ではなく、人と人との戦い――いや、国という名の組織と組織の戦いが。
それは小国同士の民族間の対立と宗教上の対立が原因の、規模的には内乱程度のものだったが、両国のバックには、それぞれに利害の相反する大国がついていて、表向きはどうあれ、その争いが二つの大国の代理戦争であることは明白だった。

その事実を知った時、瞬は呆然として、そして涙を流した。
人と人との戦い――組織と組織の戦い――は、聖闘士の力ではどうにもならないことに、俺たちは気付いてしまったんだ。
俺たちのこれまでの命を懸けた戦いの無意味――俺たちが守ろうとしていたものたちに、俺たちは裏切られたのだということに気付いてしまった。

神々と聖闘士たちの戦いは、何て人間的な戦いだったろう。
俺たちは戦うたびに、自分の肉体に痛みを覚え、敵も同じ痛みを耐えているという事実を知ることができた。
だが、組織と組織の戦いは、個々人の痛みに頓着せず、逆に その痛みを無視することによって成立する。
むしろ、その戦いは、人間が感じる痛みに無関心になることによって成り立つ戦い――無関心にならなければ成り立たない戦いだ。
そうして、人間たちは、その非人間的な戦いの中で、命を愛するという、人間にとって最も根本的根源的な感覚を失っていくのだろう。
人間のその心、その感覚こそが、アテナと俺たちが何よりも守りたいと願っていたものだったというのに。


その夜、俺は瞬の部屋に行った。
だが、獣のように瞬を求めることもできず――服も脱がず、触れ合うこともせず、二人でベッドに並んで腰をおろし、俺たちは一晩を何も言わずに寄り添って過ごした。

この地上のどこかで戦いが行なわれているのに、俺たちはその戦いに関わることができない。
止めることも戦うことも、何もできない。
悲しみより、苦しみより、生と死への恐怖より、虚無の気持ちが強くて、欲望も生まれてこなかった。
俺たちがアテナの聖闘士として戦ってきたこと、その時間はいったい何だったのかと自問して、答えは得られず――涙は出なかったが、俺たちは泣いていた。

俺は、その夜以降、瞬の部屋に行くことはなかった。
数日後、北の国に旅立った。
星矢たちは先に城戸邸を出ていた。
「元気で」
それだけを言って、俺は瞬と別れた。






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