社会通念上 極めて一般的かつ望ましいと考えられている人生を、俺は生きていない。 そのことを最も強く肌で感じる季節。 つまり、世の中が卒業式だの入学式だの入社式だので慌しくなり、出会いと別れの悲喜こもごもで盛り上がっているのが、俺にとっては完全に別世界での出来事としか感じられない時季。 俺の許に城戸沙織と名乗る女が訪ねてきたのは、まさにそんな季節――春真っ只中のことだった。 俺は俗に言う定職を持たないフリーターで、煩わしい係累のない気楽な一人暮らしをしている。 到底瀟洒とはいえない古い賃貸マンションの狭いワンルームを根城にし、日銭を稼いで生計を立てている、マトモな社会が言うところのロクデナシだ。 そんな俺の生活に文句を言う親や親戚もなく、俺がのたれ死んでも誰も困らない。 どんな仕事もするが、どんな仕事にも真面目に取り組む気になれず、長続きもしない。 そんな俺がホームレスにもならずに これまで何とか生きてこれたのは、若さと頑健な身体と、まあ、持って生まれた美貌のおかげだったろう。 日本人はどういうわけか、アジア系外国人は金を持っておらず、欧米系外国人は金持ち――と思い込んでいるきらいがある。 事実は必ずしもそうじゃないんだが、俺の見てくれが金髪碧眼の見事なガイジンなもんで、日本人は そういう方面ではあまり俺に警戒心を抱かないらしい。 英語で話しかけられたらどうしようと考えて身構える日本人は少なくないが、俺の流暢な日本語を聞くと安心して、逆に自分の方から親切心を発揮しようとするようになることが多い。 日本の大学に留学してきた学生だの、日本企業のM&Aのためにやってきた株トレーダーだのと適当な身分を口にすれば、女たちは面白いくらい引っかかってくる。 日本の店での支払い方法がよくわからないとでも言えば、彼女たちは飯でも酒でも喜んで俺に奢ってくれた。 だから、俺は、1円の持ち合わせすらない時にも、どうしようもなく切羽詰まった飢えというものは知らずに生きてこれたんだ。 こんな生活がいつまで続くのかはわからないが、いつ終わってもいい人生だということもまた確かな事実だ。 城戸沙織は、そんな俺のボロマンションの部屋には全く似つかわしくない女だった。 まずもって、身に着けている服の値段が、俺の部屋の3ヶ月分の賃貸料以上だったろう。 黒服のボディガードを二人も引き連れて俺の部屋を訪問してきた彼女は、昼近くまで寝ていて やっと起き出したところだった寝ぼけ顔の俺に、自分の名を名乗るより先に、仕事を頼みたいと切り出してきた。 「これだけの美人の相手なら、いくらでもするけど」 部屋の中に入れる方が失礼なことになりそうだと考えて、俺は玄関先で彼女に応対した。 マンションとは名ばかりの安普請の集合住宅の一室。 ベッド以外にろくな家具もない部屋だということは、玄関からでも丸わかりだったろう。 こういうところに これ見よがしに高い服を着込んで訪ねてくる方が無礼なんだ。 俺は、ぞんざいな口調で、意識して馴れ馴れしく、俺にできる仕事の内容を彼女に告げた。 言っておくが、俺は、いわゆる普通の女にはもっと紳士的に振舞う。 決してあり余る金を持っているわけではないのに、親切に俺に飯を奢ってくれる女神様たちには。 が、城戸沙織はどう見ても親切で心優しい女神様には見えなかった。 城戸沙織はおそらく俺のそんな態度に腹を立てるか、あるいは、早々に雇い主気分になって高飛車に出てくるだろうと俺は思ったんだが、そのどちらの反応も彼女は示さなかった。 ただ僅かに苦しげに、そして哀れむように目を細めただけで。 「あなたは、先月、グラード・エンターティンメントが撮影していた映画のモーション・アクターの仕事をしたでしょう」 俺に向けた哀れみを振り払うように軽く首を横に振ってから、城戸沙織はそう言った。 そんな話を持ち出すところを見ると、彼女は だとしたら、俺は自分の態度を改めなければならない。 そう考えて、俺は少し背筋を伸ばした。 「ああ、あれはいい仕事だった」 そう、あれは本当にいい仕事だった。 楽で、バイト代も高額。 あの時俺は、本当は撮影機材の搬出の仕事を請け負っていたんだ。 そのスタジオで行なわれていたのは、なんでも、CGを起こすために現実の人間の身体の動きをコンピュータに記憶させるための撮影だとかで、CG監督は、右手の指先だけで身体を支えてバック転する映像を撮りたがっていた。 もともとその仕事をやるために来ていたモーション・アクターは、両手の平を使ってのバック転や手をつかないバック宙ならできるんだが、監督の要求には応えられずにいて、撮影は遅々として進まない。 さっさと仕事を終わらせたかった俺は、待っているのにいらいらして、役立たずの役者の代役を買って出たんだ。 右手の人差し指と中指の先だけを床につくバック転――いわゆる後方転回。 CG監督は、その場で俺を撮影チームのメンバーとして雇い入れた。 2時間ほど飛んだり跳ねたりして5万の実収。 確かに、いい仕事だった。 そのCG監督は、律儀に完成試写会の関係者席用チケットを俺に送ってくれたんだが、スクリーンに俺の顔が出るわけじゃないし、俺は問題の映画を観にはいかなかった。 監督は俺のアクションだけじゃなく顔の方も気に入ったらしく、これからも仕事を頼むことがあるかもしれない――なんてことを言っていたから、俺は彼と関わり合いになるのを避けたかったんだ。 俺は、清く正しい生活をしている真っ当な人間じゃない。 他人に損害を与えたり危害を加えたりすることはしていないが、いもしない保証人を仕立てたり偽名を使ったり、法的に問題のあることをしていないわけでもなかったから――要するに、地味にひっそりと社会の片隅に生息していたかったんだ。 城戸沙織が持ってきた仕事が世間に顔の出る仕事だったなら、俺は多分、それがどれほど割のいい仕事だったとしても、きっぱり断っていたと思う。 俺は今住んでいる部屋も自分の本来の名で借りてはいなかった。 保証人も借り物だった。 あぶく銭の代わりに 城戸沙織が俺に依頼してきた仕事の内容。 それは、 「あなたに、ある人の代役を頼みたいの」 というものだった。 「代役? お嬢さんを楽しませる仕事じゃないのか」 「私は、そういう相手には、もっと色々な面で安全な男性を選ぶわ」 「ごもっとも。金持ちのお嬢さんは、さすがに賢明だ」 なら、どこかの死にかけた金持ちばあさんの孫の振りでもして、遺言状を書き換えさせようとか、そういう魂胆か? 俺は、『人様に3万以上の支出を求めない』をモットーにしているチンピラだぞ。 大掛かりな詐欺行為の片棒を担がされるのは御免被りたい。 俺がそう言うと、彼女は、質の悪いサスペンスドラマの見過ぎだと、俺の懸念を一笑に伏した。 もしその手のことを企てているのだとしたら、自分は法的に問題のあることに素人は使わない――とも。 確かに。 賢明な人間ならそうするだろう。 その点に関しては安心して、俺は俺の雇い主になるかもしれない人物に、仕事の報酬額を尋ねた。 「1ヶ月間衣食住の面倒を見ます。代わりに24時間完全に拘束させてもらうわ。報酬は――相場がわからないわね。ご希望はどれほど?」 探るように、城戸沙織が俺に反問してくる。 察するに、俺自身に値をつけさせることで、逆に俺を値踏みしようという魂胆なんだろう。 金持ちっていうのは実に嫌らしい人種だ。 ま、俺みたいなビンボー人はもっと卑しいが。 1ヶ月食うに困らないのならタダでもいいというのが、俺の本音だった。 が、その上金が入るなら、更に文句はない。 貰う報酬は、そりゃあ多ければ多いほどいいわけだが、ふっかけすぎて、この仕事がダメになるのもまずいだろう。 俺はもう1週間近くろくな仕事にありつけずに、この部屋でごろごろしていたところだった。 「50万くらいでどうだ」 この当たりが妥当と思う額に数割を加算した額を 城戸沙織に答えてみたら、 「その10倍出します」 と、金持ちはあっさり言ってのけた。 「10倍って、500万? 1ヶ月で? あんた、正気か?」 本当に危ない橋を渡る仕事じゃないんだろうなと、俺は彼女に念を押したくなった。 俺がそうするより先に、大金持ちのお嬢さんが、500万という金額の価値について、彼女なりの見解を披露する。 「有能な経営コンサルタントを1ヶ月雇おうと思ったら、それくらい支払うのはよくあることよ。もちろん 1日8時間労働でだけど。私は24時間あなたを拘束したいし、妥当な額なのではなくて?」 これが金持ちの妥当か。 卒業式や入学式で慌しい世界とはまた別の世界が、この世にはあるということだな。 「俺には、特別な才能はない」 「あるわ。この世界に、あなた以外の誰も持っていない唯一無二の才能が」 「そりゃ初耳だ。俺のどんな才能がお嬢さんの目にとまったんだ?」 「その綺麗な顔」 金持ちのお嬢さんはにっこり笑ってそう言った。 まあ、確かに俺には他に取りえはない。 |