「父さんが何を言ってきても、絶対に言うこときいちゃだめだよ。兄さんがきっと迎えにきてくれるから、それを信じて、気を強く持ってね!」 その足でエスメラルダの部屋に行くと、シュンは、憤慨した口調で父の横暴を非難した。 「でも、伯父様がそうお決めになったことなのに……」 シュンの義姉であるエスメラルダの声音は、憤慨しきっているシュンとは対照的に非常におとなしいものだった。 そして、ひどく沈んでいた。 「誰が決めようと、嫌なら嫌って言っていいんだよ!」 そんな姉の前で、シュンの声はますます荒くなる。 望めばいくらでも贅沢な調度を揃えることができるというのに、エスメラルダの部屋は いかにもイギリス女性が好みそうな、家庭的で温かな雰囲気の漂う部屋だった。 エスメラルダ自身は、派手ではないが趣味の良い水色のドレスを身につけ、椅子に腰掛けている。 その両肩が力なく落とされていることが、養父の計画を彼女が決して喜んではいないことを如実に物語っている。 それでも彼女が、真っ向からシュンの父に逆らうことができないのは、彼女が彼女の伯父であり養父でもある人物に一方ならぬ恩義を感じているからだった。 エスメラルダの両親は特に優れた才覚があるわけでもない ごく普通の市民――労働者――だった。 何よりも才能の有無を重視するシュンの父は、エスメラルダの実父に、妻の妹の夫というので特段の役職や地位を与えることはしなかったが、エスメラルダの両親にずっと生活面での援助を続けることはしていた。 二人が亡くなってからはエスメラルダを自分の家に引き取り、孤児になったエスメラルダは、シュンの父から、両親が生きていた時よりも安定し安全な生活を与えられた。 実の息子たちと分け隔てのない愛情を注いでもらってもきた。 だから、エスメラルダはシュンの父に逆らえなかったのだ。 豊かな生活と肉親としての情愛。 前者は捨てることができても、後者は捨てられないもの――失いたくないものだったから。 「兄さんが嫌いになったの……もう待てないと思うの……」 俯いているエスメラルダを、シュンが切なげに見詰めてくる。 エスメラルダは、力なく首を横に振った。 「そんなことはないわ。許されるなら、いつまでだって私は待つわ。でも、伯父様が――」 「『伯父さん』じゃなく、『父さん』! 義理とはいえ親子なんだから、言いたいことは言うべきだ。父さんだって姉さんの幸福を願ってるに決まってるんだから、どうしても嫌だって言えば、無理強いはしないよ」 「シュンちゃん……」 シュンは、兄がこの家にいる時は、いつも兄の陰に隠れているような子だった。 それが、家を出る兄に「エスメラルダを頼む」と言われて以来、ずっと気を張って、兄の恋人を守り続けてきてくれた。 この健気な弟が望むことと、シュンの父が望むこと、そして、自分の望むことが同じだったらよかったのにと、エスメラルダは心から思ったのである。 そんな望みを望むことしかできない己れの非力が、エスメラルダは悲しくてならなかった。 「姉さんが嫌って言えないんなら、向こうから断ってもらえばいい」 気弱な姉を無言で見詰めていたシュンが、ふいに決然とした口調で言い切る。 「どうやって」 どうすれば そんな都合のいい展開を実現できるのか、エスメラルダには想像もつかなかった。 シュンの言を信じるなら、相手は、グラードの家の娘の持参金が目当ての破産しかけた名門貴族。 彼の目的が、妻を得ることではなく、妻の持つ金を得ることなのだとしたら、自分がこの家の娘である限り それは期待できないことと、エスメラルダは思わずにはいられなかったのだ。 その、安易に期待できそうにない事態実現のためにシュンが考え出した方法は、さすがに尋常のものではなかった――非常に突拍子のないものだった。 シュンは、 「僕が姉さんの振りして、名門貴族のお坊ちゃんの花嫁にふさわしくないことをして呆れられちゃう――っていうのはどう? 貴族なら、もしかしたら、お金より家の体面の方を重視するかもしれない。僕と姉さん、せっかく瓜二つなんだから、これを利用しない手はないよ」 と言い出したのである。 「私の振り……って、シュンちゃんがドレスを着て公爵様の前に出るの?」 義姉のその言葉を聞いたシュンが、きつく唇を引き結ぶ。 自分の考えた求婚者撃退法がそういうものだということに、シュンは考え及んでいなかったらしい。 義姉に似ていると言われことは喜ぶのに、『女の子のようだ』と言われるのは大嫌いなシュンに、そんなことができるわけがない――と、エスメラルダは困惑しながら思った。 しばし考え込んでいたシュンが、しかし、やがて にわかに明るい表情になってエスメラルダに笑顔を向けてくる。 「男の格好のままでいいでしょう。その方がお転婆ぽくて。姉さんの評判は落ちるかもしれないけど、いいよね? 姉さんには兄さんがいるんだから」 「……」 エスメラルダは、もちろんシュンの計画通りに事が運ぶのなら、自分の評判など地に落ちても構わないと思っていた。 むしろ、その方が、金輪際自分の許に縁談が持ち込まれることがなくなって有難い――とすら思っていた。 だが、彼女の胸中には、そううまくいくものだろうかという不安もまた存在していたのである。 そんなエスメラルダの不安を知ってか知らずか、シュンは、金目当ての卑しい最低男を撃退し、兄と姉の恋を死守するのだという不退転の決意に燃えているようだった。 |