「おはよう、氷河」 何か気の抜けた朝だった。 新しい一日の陽光の中で朝の挨拶を投げかけてくる瞬の姿は、どこか輪郭がはっきりせず、ぼやけて見える。 瞬はもっと綺麗で、心地良い緊張感を身にまとい、生気に輝いていたような気がするのだが、では昨日までの瞬と今朝の瞬とで何が変わったのかと問われると、氷河は答えに窮するしかなかったのである。 瞬自身は、見た目には昨日と今日とで何も変わったところはない――と思う。 少なくとも氷河は、昨日の瞬と今朝の瞬の相違点はここだと 明確に指摘することはできなかった。 だが、何かが違う。 妙な違和感を覚えながら、氷河は、ベッドの上にのそりと上体を起こしたのだった。 「はい、コーヒー」 「ああ」 朝の食卓についても、氷河の“妙な違和感”は抜けなかった。 いつも通りの笑顔と いつも通りの優しい所作で瞬が差し出してくるコーヒーを受け取り、頷く。 瞬は、氷河の気の抜けた声を聞き、不思議そうに首をかしげた。 同じダイニングテーブルについている星矢たちも、奇妙なものを見る目を氷河に向けてくる。 氷河は、自分が何かおかしなことをしたのかと、きまりの悪さを覚えることになった。 「おまえ、今朝は何か変だぞ」 「いつも通りだが」 星矢の指摘に、氷河としては そう答えることしかできなかったのである。 いつもと違うことをしたつもりもないし、いつもと違う言葉を口にした自覚もない。 それでも星矢は、彼が感じている違和感を 気のせいと切って捨てることができなかったらしい。 彼は、怪訝そうに眉根を寄せることをやめなかった。 「具合いでも悪いのか? 今朝のおまえは、どこか投げやりな感じがするぞ。いつものおまえは、瞬がいれてくれるコーヒーを受け取るだけのことにも、もっとこう――何というか、真情のこもった返事を返していた」 仲間の様子に違和感を感じているのは、星矢だけのことではなかったらしい。 紫龍は、星矢よりは具体的に、平生と違う氷河の態度に言及してきたが、氷河は彼の言わんとするところが全く理解できなかった。 瞬のいれてくれたコーヒー。 それを氷河は、昨日も『ああ』の一言と共に受け取っていた。 そんな単純で短いやりとりの中に、昨日と今日とで違いなど生じるはずもない。 「今日は、児童書フェアを見に行く予定だったけど、氷河、大丈夫?」 瞬が、覇気のない氷河――瞬にはそう見えているようだった――に、心配顔で尋ねてくる。 瞬に問われて、昨日あの犬に出会う前に瞬とそんな話をしていたことを、氷河は思い出した。 世界中の児童書の原書の初版を集めた展示会が、どこぞのデパートのギャラリーで開催されているとか何とか。 グラード財団が協賛していて、沙織さんからチケットを貰ったのだと、瞬は嬉しそうに言っていた。 それは憶えていたのだが――。 「億劫だな。やめないか」 氷河はあまり気乗りがしなかったのである。 『セーターラビット』だの『不思議の国のポリス』だの、そんな子供向けの本を見て、何か得られるものがあるとも思えない――というのが、彼の正直な意見だった。 「億劫? 氷河、ほんとに具合いが悪いの?」 「いや、体調は悪くない」 『なら、なぜ』と、瞬が氷河に問い返さなかったのは、そういう尋ね方をした際に氷河から返ってくる答えを、瞬自身が聞きたくなかったからだった。 『詰まらない』『無益だ』――。 今朝の氷河は、そういう返事を平気で口にしそうな空気を身の周りに漂わせていた。 そんな答えを聞くくらいなら、 「誘ったの、迷惑だった?」 と尋ねて、 「そうだ」 という答えを返される方がずっとましである。 だから、瞬は、彼にそう尋ねた。 氷河から、 「そういうわけでは……」 と、歯切れの悪い答えが返ってくる。 「なら、今日は僕ひとりで行ってくるよ。ごめんね、無理に誘って」 「俺も付き合ってやってもいいんだが……」 氷河は気乗り薄な態度を隠そうともしない。 そして実際に、瞬が『ひとりで行く』と言っても、あえて同伴しようとする意思を示すこともしなかった。 いつもなら、それがペンペン草の品評会でも瞬を一人で外出されることはできないと言って瞬についていく氷河の、今日のこの態度。 その態度に微少でないショックを受けたらしい瞬が、朝食もそこそこにダイニングルームを出ていく。 「瞬の奴、かなり傷付いてるぞ。追いかけなくていいのか」 星矢は婉曲的に氷河に翻意を促したのだが、氷河は倦怠感に満ちた様子で 眠たげな目を虚空に投げているだけだった。 |