氷姫こおりひめ






「赤ん坊の頃、死にかけたことがあるんだ」
俺がそう言うと、瞬はひどく不安そうな目をした。
俺は今こうして生きているんだから、あくまで『死にかけた』のであって『死んだ』わけじゃない。
なのに瞬は、俺が死んだ話を聞かされると本気で信じてるんじゃないかと思うくらいに、頬を青ざめさせた。
まあ、『死』という言葉自体が楽しいものじゃないから、瞬みたいに繊細な人間ならそういう反応もあるんだろうと、俺は自分を納得させたんだが。

そこで話を切り上げてしまえばよかったのかもしれない。
だが、俺は話を続けた。
どうしても話したかったというわけではないんだが――そこで話すのをやめてしまったら、瞬がその不安をしばらく引きずることになるかもしれないと、俺は懸念した。

「その頃、俺のマーマは東シベリアの外れにある小さな村に住んでいた。もうすぐ満1歳になるっていう年の冬、俺は突然原因不明の熱を出した。多分、子供にはよくある発熱だったんだろう。だが、放っておけば抵抗力のない子供は死んでしまうかもしれないという、あれだ。村には医者がいなかった。ひどい吹雪の日で、村の者たちは、今 家を出るのは危険だと止めたそうなんだが――マーマは俺を抱いて、クラスノヤルスクの町まで行こうとした」

相変わらず不安そうな目をして、瞬は俺の話に耳を傾けている。
俺がそれまで誰にも話したことのない その話を瞬に語り出したのは、瞬がやたらと俺の昔のことを――昔に限らず、俺のことを――知りたがったからだった。
瞬が俺に興味を持ってくれることが純粋に嬉しくて、だから俺は話したんだ。
どういうわけか、誰にも話してはならないことだと思い込んでいた、その話を。

「吹雪いてさえいなければ通い慣れた道だ。マーマが方向を失って遭難しかけることはなかったろう。だが、村を出て さほど進まないうちに、マーマは自分の居場所がわからなくなった。火がついたように泣いていた赤ん坊は、泣く力も失せたのかぐったりしているし、自分はどっちに進めばいいのか、皆目見当がつかない。親子揃ってそこで凍死する覚悟を決めて、マーマはその場にへたりこんでしまった。そうしたら、そこに、どこからともなく一人の見知らぬ女性がふいに現れて、マーマの腕の中にいる俺の顔を覗き込み、そして赤ん坊だった俺にキスをした。途端に、死にかけていた赤ん坊の呼吸は落ち着いて、赤ん坊の泣き声みたいな音を響かせていた吹雪もぴたりとおさまった。その間ずっと、マーマは金縛りに合ったように動けなくて、俺が氷姫にキスされるのを、恐れおののきながら見ていたらしい」

「氷姫……?」
「マーマは、そう言っていた。氷姫のキスは、死にかけた者の命を救う。だが、氷姫に命を与えられた者が彼女の二度目のキスを受けると、その人間はすべてを忘れて彼女の国に行ってしまう。最初のキスで吹き込まれた命を、二度目のキスは彼女に返すキスになるかららしい」

日本に雪女の伝説があるだろう。
吹雪の中、決してこのことは話してはならぬと言われて、雪女に命を救われた男の話。
命拾いをした男は やがて妻を迎え、決して話してはならぬと言われたことを、その妻に話してしまう。
その妻の正体は雪女だったわけだが、俺は、あの軽率な男の気持ちがわかるような気がする。
可愛い女房にせがまれたら、話してはならぬと言われたことだって、つい話してしまうだろう。
どんなに些細なことでも、俺のことを知ってもらいたいと願って、俺が今、これまで誰にも話したことのない話を瞬にしているように。

「それで……? 成長した氷河の前に、氷姫は再び現われたの?」
不安と好奇心がないまぜになったような目をして 俺に尋ねてくる瞬が雪女である可能性は、万に一つもないんだが。
「いや。それだけだ。まあ、それが本当の話だったとしても、二度目のキスを受けなければいいだけのことだしな。そうすれば、俺はこのまま普通に生き続けて、寿命を全うできる」

同じことを、子供の頃、マーマに言ったことがある。
マーマはわざとしかつめらしい顔をして、
『でも、氷姫はとても美しい姿をしていて、大抵の人間は自分から二度目のキスを彼女に求めてしまうんですって。結婚式の日に氷姫が現れて、彼女にキスされた青年が花嫁を忘れて氷姫と共に彼女の国に行ってしまったこともあるそうよ』
と、俺に言った。
『氷姫が現れても、僕はマーマのことを忘れたりしないよ!』
俺が向きになって訴えると、マーマは嬉しそうに俺の頬にキスをしてくれた。

美しい人だった。
他の誰が何と言ってマーマを蔑もうと――父のない子を産んだ女と、マーマを非難しようと――マーマは、俺の誇りだった。
その美しい人も、今はもういない。

「マーマが死んでから知ったんだ。キスで死にかけた子供を救い、成長した男を二度目のキスで彼女の国に連れ去る“氷姫”というのは、アンデルセンの書いた童話だったってことに」
「アンデルセンに、そんなお話あったっけ? 二度目のキスのくだりは、『雪の女王』の話に、そんなところがあったような気もするけど」
瞬が僅かに首をかしげ、問いかけるような目を、俺に向けてくる。
雪女がこんなに可愛らしい生き物だったなら、俺の許には永遠に冬なんて季節は巡ってこないだろう。
瞬は温かい。いつも、とても。

「アンデルセンはスラヴ地方に伝わる伝説を元に、その話を書いたのかもしれない。それが創作でなく伝説――おとぎ話でなく事実だったとしても、まさか氷姫も日本までは追いかけてこないだろう。たとえ追いかけてきても、俺には春の精がついている」
俺の言う『春の精』――それが自分のことだと知って、瞬は微かに頬を上気させた。

瞬は本当に可愛い。
惚れた欲目もあるのかもしれないが、氷姫の冷えきった心だって、瞬の温かい表情と優しさの前には たちどころに溶かされてしまうに違いない――と、俺は思う。
少なくとも、雪と氷の聖闘士は、瞬に出会った瞬間に、瞬が全身にまとっている優しく温かい空気の感触に夢中になった。
瞬も、俺に応えてくれた。
瞬は俺に瞬のすべてをくれた――ただ一つのものだけを除いて。






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