気がつくと、俺は冷たい石の床に横たわっていた。 高いところにある天井、冷たい空気。 俺は春の中にいたはずなのに、ここは、すべての命が立ち去ったあとの真冬のような空漠に満ちている。 似たような光景を、俺は過去に見たことがあった。 母を失い、瞬に出会うまで――あの時期の俺の心の光景に、それは酷似していた。 ――意識が、少しずつ明瞭になる。 ここがどこなのかを確かめるために身体を起こそうとして、俺は、俺の胸の上に誰かの手があることに気付いた。 それは、氷のように冷たい白い小さな手だった。 俺の横に瞬が倒れている。 その身体は、俺の心の尋常でない冷たさを、すべて その身に引き受けてしまったかのように 冷えきっていた。 瞬の身体は死んだ者のように動かない。 「瞬……」 声にしたつもりだったが、それが他人に聞き取れる音として その空間に響いたのかどうかは、俺にはわからなかった。 そうして、俺は、ここがどこであるのかを思い出した ここは、知恵と戦いの女神が君臨するはずの聖域――天秤宮。 ここで、俺は、水瓶座の黄金聖闘士に会い、そして――そうだ。 俺の甘ったれた性根に希望を見い出すことのできなかったカミュは、俺を氷の棺に閉じ込めてしまったんだ。 瞬は、そんな俺を救おうとしたのか? 俺を生き返らせるために、その命を懸けた? 瞬の小宇宙が微かに優しく頷く。 この空間に僅かに残っている瞬の小宇宙が、瞬が生きていることを、俺に知らせてくれた。 瞬がもし その命を失っていたら、せっかく生き返らせた男がまた子供じみた感情に流されて再び死を選びかねないことを、瞬は知っていたんだろう。 『生きて』 と、瞬の小宇宙は俺に囁きかけてきた。 瞬は生きている。 それほどに強い瞬の心は、カミュの凍気――いや、俺の冷えきった心なんかに負けてしまったりはしなかった。 瞬は、命を賭けて挑んだ試みに、もちろん勝利した。 瞬は、俺に、共に戦う仲間であることを求めていたんだろう。 瞬が本当に好きなのは、そういう“氷河”だった。 だというのに俺は、一人で現実の世界の苦しみから逃れ、あの夢の中に逃げ込んだ。 瞬は命がけで俺の夢の中に侵入し、そこで俺の甘ったれた夢に愕然とし――それでも心弱い俺を許そうとしたんだろう。 卑怯者の俺を許し、認め、瞬は俺の我儘な夢に付き合ってくれさえした。 『おまえが好きだ』と告げた俺に『僕も』と答え、あさましい欲望を瞬に静めてもらうことを望んだ俺のために身体を開き、だが、心だけは、この無人の天秤宮で かろうじて命だけを保っている俺のために守り続けた。 それでも 瞬が愛していたのは――少なくとも、その心を預けてもいいと思っていたのは、自分に与えられた宿命と戦いから逃げようとしない男だった。 あんな夢の中に逃げ込んで安穏と生きている男ではなく、理不尽にも思える運命に立ち向かっていく意思と力を持った男だったんだ。 それでも、あの世界で、ぬるま湯につかっているように漂っている俺を否定しきれず――ああ、おそらく瞬は、あの世界で自らが命を与えた非力な赤ん坊を愛し守ろうとする母親のように、俺を愛し守ってくれていたんだ。 そんな瞬に、俺は、生意気に大人ぶって、無理な背伸びをして、その心が欲しいと駄々をこねた。 あの時、俺の中には、自らに課せられた運命を戦い抜く意思があっただろうか。 俺は、瞬の心がほしいと、それだけを望んでいたような気がする。 そのためになら、どんな試練をも甘んじて受け入れると覚悟した気持ちは決して嘘ではなかったが。 子供というものは、だが、そんなふうにして大人になっていくものだろう。 人間というものは、そんなふうにして成長していくものだ。 欲しいものを手に入れるためには、それに見合う代償を払わなければならないという事実を、認め受け入れることによって。 指を咥えて眺めているだけでは望みは叶わないという現実を知り、望みをかなえるための努力を始めることで。 瞬は、命がけで、俺にあの夢を見続けさせてくれた。 瞬は、それが間違った優しさだと気付いていたと思う。 気付いていたのに――苦しみと戦いでできている世界に俺を連れ戻すことで 俺がまた傷付くことを、瞬は恐れていたのか? 「あまり、俺を甘やかすな、瞬」 俺は、愚かで心弱い子供だった。 今も、おそらく非力な子供にすぎない。 だが、それでも俺は瞬の心がほしいんだ。 今は無理でも、いつか必ず、俺は瞬と同じ高みに至り、対等な人間として瞬を愛し愛されるようになる。 今度こそ、瞬の身体と共に瞬の心をも抱きしめることのできる人間になってみせる。 そのために――まずは前進しなくては。 永遠にも似た一瞬の夢。 泣きたいほど幸福だった あの世界。 だが、俺は、幸福な夢から目覚めたことを後悔してはいなかった。 瞬の心がある世界が、俺の生きていく世界だったから。 瞬の心がある世界でしか、俺は真実の幸福に至ることができないから。 だから――。 俺は、俺の健気な春を抱きしめ、抱き上げ、再び 俺の生きる世界の時間を歩み始めた。 Fin.
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