- II -






『そうして、人は自分の位置を自覚することで安心する。そうすれば分不相応な夢も見ずに済んで、大きな失望を味わうこともなくなる。他でもない、おまえの瞬がそういう人間だろう』
カミュは瞬をそう評したが、それでも夢を見ずにはいられないのが人間というものである。
まして、その夢が叶えられなければ生きていることも不可能なほど切羽詰まっている人間は、その夢を叶えるために足掻くことが“生きること”と同義になる。
今の瞬がそうだった。

「僕はただの捨て子で……氷河のお母様がいなかったら、氷河のお母様が優しい人でなかったら、多分、赤ん坊の時に死んでた。それだけでも僕はとても幸運で、今こうして生きていられるだけでも神に感謝しなきゃならない。だから、その時がきたら、僕は氷河の側を離れなきゃならないんだと思ってた。そうするつもりだった。そうできると思っていたんだ」
「いざ、その時がきてみたら、彼から離れられなくなっていることに気付いたわけか」

紫龍に問われた瞬が、力無く頷く。
そのまま俯いてしまった瞬を見て、聖十字騎士団の広い庭の中央にある彫像の台座に腰をおろしていた星矢は、わざとらしく肩をすくめた。
聖十字騎士団の騎士居住区は、一般民居住区と区別するために強固な城壁で囲まれているが、その敷地内にある病院や教会は一般人に解放されている。
庭には初夏の午後の陽光と少々の人目があった。
瞬が顔を伏せたのは、だが、人目を気にしてのことではなかっただろう。

「男爵家のお坊ちゃんねー。そいつ、おまえが惚れるほどの男なのか? おまえの話を聞いてると、我儘だし、強引だし、分別はなさそうだし」
「瞬は、彼のその分別がないところが好きなんじゃないのか?」
「まあ、爵位や王位より瞬の方がいいと駄々をこねるあたりは、見どころがあるかもな」

そう告げる星矢自身、決して分別に恵まれているとは言い難い人間である。
だから彼は、口で言うほどには瞬の恋人に悪感情を抱いてはいなかった。
もともと星矢は、誰かを心底から憎んだり嫌ったりすることのできる人間でもないのだ。
分別に恵まれていない上、異国からやってきた新参者であるにも関わらず、星矢がこの騎士団内で目立った摩擦も起こさずに過ごしていられるのは、彼の悪意のなさが誰にでも感じ取れるものだったからだったろう。

聖十字騎士団は、この国のみならず、大陸のほぼすべての国に支部を持つ有力な騎士団の一つだった。
本来は、もちろん剣の力で正義を為すことを第一義として存在する無国籍の機関なのだが、騎士団は奉仕の精神を養うための副業として、主に貧しい者たちのための医療活動も行なっている。
金のかかる医師の世話になることのできない貧民たちの多くは、病を得るとこの騎士団の敷地内にある施療院の扉を叩く。
瞬が星矢たちと知り合ったのも、都の外れにある市場で病に倒れ苦しんでいた老人をここに連れてきたのがきっかけだった。
五ヶ月ほど前のことである。
瞬と大して歳は違わないが、星矢と紫龍は正式な叙任を受け、正式な騎士誓約を済ませた歴とした騎士だった。

「この国で、貴族とそうでない者の間に越えることのできない壁があるのは事実だ。貴族でなければ就けない地位や職業は腐るほどあるし、逆に貴族には許されない職業というものも多くある。貴族と平民の間では正式な結婚もできない。生まれついての身分は、もちろん生涯変わることはない――が、抜け道がないわけでもない」
「へえ?」
星矢が意外そうな顔になったのは、彼がこの国に生まれた者ではなく、それ故 この国の階級制度に精通していないからだった。
星矢と紫龍は、つい半年前に、騎士団の他国の支部から人材交流のためにこの国にやってきた異国人だった。

「そういうのがないと、低い身分に生まれた才能ある者が不満を募らせて何をしでかすかわからんからな。――で、この国では、貴族でない者が貴族になることはできないが、貴族社会に入り、貴族と親しく対等に交際することを咎められないための手段が4つほどある」
「4つ?」
それを『4つもある』と評するべきか、『4つしかない』と評するべきかの判断に迷ったらしい。
星矢は『4』という数を反復することだけをして、紫龍の続く言葉を促した。
紫龍が、求められたものを仲間の前に提示する。

「第一に、貴族以上の金を持つ。第二に、学者になって大学で地位を得る。第三に、聖職者になって、宗教界で地位を得る。そして、第四が、騎士の身分を手に入れる――だな」
「『聖闘士になる』が抜けてるぞ」
「それは平民が貴族と並び立つための手段ではなく、身分制度から抜け出すための方策だ」
「ごもっとも」
星矢の首肯を確認すると、紫龍は改めて瞬の方に向き直った。

「『金を儲ける』、『学者になる』は、時間がかかる。目的が恋の成就なら、聖職者になるのは本末転倒だろう。というわけで、おまえに残された道は、俺たちと同じように騎士になる道のみ。ということになるんだが――」
「うん。だから、ここに来たの」
「おまえが騎士に? その手に剣を持つというのか?」

自分で『その道しかない』と言った当の本人が、瞬の決意に異議のあるような口調になる。
紫龍の渋面も躊躇も、だが、故なきことではなかった。
瞬の華奢な体つき、何より その細い腕を見て、『おまえにならできる』と安請け合いができるほど、彼は無責任な男ではなかったのだ。
その無責任なことを、星矢がいともたやすくやってのける。

「瞬は才能あると思うぜ。身のこなしが軽くて、ちゃんばらすると、俺の方が負けることもあるからな」
「それは本当か」
信じ難いといわんばかりの表情になった紫龍に、星矢は大きく頷き返した。
星矢は、先年、歴代最年少で騎士団に迎え入れられた、団の中では知らぬ者のない剣の使い手だった。
人好きのする性格だけで、各国の騎士たちに一目置かれているわけではない。
彼は強い――誰もが認める実力と、そして強運の持ち主なのだ。
その星矢の保証がついても難しい顔を崩さない紫龍に、星矢は彼らしい鷹揚で軽快な笑顔を投げかけた。

「難しく考えるなよ。騎士なんて、貴族の家に生まれれば、剣を持てる男は誰でも得られる称号だ」
「貴族の家に生まれれば、な。平民は厳しい入団試験を受けなければならない。この国だけでも、毎年4、500人からくる希望者同士で戦って最後の5人に残り、10年以上団にいる中堅騎士と戦い、それなりの技と人品を騎士団長や他の騎士たちに示さなければ――」
「瞬ならいけるって」
「今年の試験は1ヶ月後だぞ」
「だから、特訓しようって言ってるんじゃん。俺が剣術、おまえが作法と騎士道精神の何たるか。それぞれの分野の第一人者がつきっきりで教えてやれば、1ヶ月後には立派な騎士様のできあがりだ」

星矢は最初から瞬の決意を見て取っていたらしい。
その上、瞬に深々と頭を下げられてしまっては、紫龍も否やは言えなかった。






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