それは、長くても演奏時間が10分を越えることはない小品を数曲収めたピアノ曲集だった。 収められている曲は皆、有名な作曲家たちの曲だというのに、どれにも聞き覚えがない。 曲名を見ても、それがどんな曲なのかわからないのだからと、まともに見ていなかった収録曲一覧を見て、瞬は愕然としたのである。 ベートーヴェンの『月光』、モーツァルトの『ピアノ・ソナタ 第15番ハ長調K.545』、ショパンの『舟歌』、リストの『ラ・カンパネラ』、シューマンの『クライスレリアーナ』、ラヴェルの『亡き王女のためのパヴァーヌ』。 裏ジャケットに記載されている曲の名はすべて、瞬の知っている曲ばかりだったのだ。 クラシックになど縁のないアテナの聖闘士でも知っているというべきか――それらはすべて、クラシックと言うには、あまりにポピュラーな曲ばかりだったのである。 タイトルがすぐに出てこなくても、「ああ、この曲なら聞いたことがある」と、普通のピアニストの演奏を聴いたのであれば、瞬も思っていただろう。 確かによく聴けば、その曲だとわかる――わからないでもなかった。 つまり、そのCDに収められている曲はどれも、注意して聴かなければ絶対に「あの曲だ」とわからないような演奏をされていたのである。 『ルツェルン湖の月光の波に揺らぐ小舟のよう』と評されたベートーヴェンの『月光』第一楽章は、恐ろしく速いスピードで演奏されていて、今にも破裂しそうな心臓の鼓動のようだった。 可愛らしいソナタであるはずのモーツァルトの『ピアノ・ソナタ 第15番ハ長調』は、逆に異様なほど遅く演奏されていて、耐え難い苦痛に喘ぎ のたうつ人間の苦悶を表しているようである。 難曲として有名なショパンの『舟歌』は、本来の調性不安定な和声が表現する浮揚感の面影はなく、明るい春の暖かさに浮かれ舞っている蝶のような印象。 1オクターブ以上の広い音程を含む大胆な跳躍が軽快に演奏されるべきリストの『ラ・カンパネラ』は、波ひとつなく凪いだ海の深く広い落ち着きを呈し、『クライスレリアーナ』第一曲の3連符の分散和音が激しく駆け回る主部は、非常に緩やかで――まるで永遠を表現しようとしてでもいるかのように優しい。 そして、優雅と繊細が売りのラヴェルの『亡き王女のためのパヴァーヌ』は、まるで抑え難い欲望に急きたてられている人間の心のように性急だった。 上手いのか下手なのかはわからない。 ただ、演奏者の技術は確かなのだろうと、瞬は思った。 素晴らしく速いノン・レガート奏法は、相当の運動神経と体力がなければ、とても実現できるものではない。 本来なら15分はかかるはずの『月光』全3楽章を、このピアニストは僅か5分で演奏し終えているのだ。 楽章ごとに分け、十分な休憩時間を入れて弾いたにしても、相当の鍛錬を積んだ人間でなければ不可能な演奏だった。 技術は確かなのだとしても――だが、あまりにも曲の解釈が一般に流布しているそれと違いすぎる。 それは編曲や曲の解釈による印象の変化というような 生やさしい違いではなかった。 このピアニストは、それらの有名な曲を全く違う作品に作り変えてしまっているのだ。 おそらく、楽譜通りなのは 楽譜にフォルテ(強く)と記されている部分をピアノ(弱く)で弾いたり、クレッシェンド(徐々に大きく)をデクレッシェンド(徐々に小さく)で弾いたり、旋律を作る音同士を滑らかにつなげるレガート部分を、わざと音を区切って弾くノン・レガートにしたりすることで、演奏者は作曲家が指定した弾き方を完全に無視していた。 作曲家の意図をピアノという楽器によって聴き手に伝えるのがピアニストなのだとしたら、この演奏者はピアニストではなく、曲の破壊者である。 作曲家の意図を殺し、作曲家の個性を殺し、その曲を演奏者のメッセージで塗りつぶした、あまりにも独創的な演奏。 だが、それが非常に魅力的な“音楽”になっていることは、疑いようのない事実だった。 全体的に、力強く、美しく、時折 繊細さも垣間見えるが、それはすぐに激しさに打ち消される。 すべての曲に共通して言えることは、それらの演奏が、情熱的に何かを訴えようとしていること。 それは何なのかと問われると、瞬は、『愛を捧げ、愛を求める思いだ』としか答えようがなかった。 そのCDに収録されている演奏は、それがソナタであれ協奏曲であれ、すべてが、ありえないほどに情熱的な恋の曲だった。 そして、瞬に尋常でない衝撃を与えたのは、ピアニストの独創的にすぎる演奏ではなく、まさにその激しさだったのである。 突き詰めて言えば、ただの音。 その音の羅列が、なぜこれほど聴く者の心を揺さぶり、身体までを震わせるのか。 そんな反応を示す自分自身が、瞬はよく理解できなかった。 理解できないまま――瞬の心と身体は、いつのまにか その音に完全に囚われてしまったのである。 |