「熱……って、じょ……冗談でしょう…… !? 」
青ざめた面持ちの氷河の報告を聞いて、沙織は、氷河よりも更に その頬を蒼白にした。
どうやら沙織は――もしかしたら氷河も――これまでこの事態を星矢ほどには深刻に憂えていなかったのかもしれない。
深刻に憂うどころか、彼女は、“音”が人の心に及ぼす影響というものに興味津々でいたらしい。
医者を呼んだ方がいいのではないかという氷河の言葉に、沙織は初めて深刻に考え込む素振りを見せた。
やがて、意を決したように、氷河ではなく星矢に向かって指示を出す。

「お医者様を呼ぶのは、ちょっと待って。その前に、瞬をピアノ室に連れてきなさい」
「え? でも、熱があるんだろ」
「いいから! あのピアニストに会わせてあげるから、すぐに来なさいって言って、無理にでも引っ張ってらっしゃい!」
「へっ」

アテナに突然そんな乱暴な命令を下された星矢は、目を丸くしてしまったのである。
それほど簡単に瞬をくだんのピアニストに会わせてやることが可能なのなら、もっと早く手配してくれていてもよかったではないかという不満と、瞬の体調が芳しくないのなら、瞬を呼んでくるのは そのピアニストが到着してからの方がいいのではないかという、極めて現実的かつ合理的な考え。
そんなことに気のまわらない沙織でもないだろうから、今すぐ瞬をピアノ室に引っ張って来いというのは、瞬と問題のピアニストと実際に会わせるための指示ではないのかもしれないという疑念。
そんなものに囚われながら、星矢は、ともかくこれはアテナの命令なのだと無理に自分を納得させて、瞬の部屋へと向かったのである。

沙織は 問題のピアニストを実際に瞬に会わせてやるつもりはないのではないか――という星矢の疑念は、的を射たものだったのかもしれない。
星矢が紫龍と共に瞬を支えてピアノ室に入った時、そこには沙織と氷河がいるきりだった。
件のピアニストを呼びつけた気配もなく、二人は二人で何やら小声で言葉を交し合っている。

「あの……」
これほど自分の心を震わすピアニストに ついに会えると期待して、重い身体を運んできた瞬は、そこに沙織と氷河の姿しかないことに、不安と、そして落胆を覚えたようだった。

グランドピアノの屋根蓋が開けられていることに気付いた星矢が、ある一つの可能性に思い当たって 眉をひそめる。
「まさか、あのピアノ演奏したのって、沙織さん? あのCDにはアテナの小宇宙か神の血でも混じってたのか?」
人にあらざる人が演奏したものであれば、その“音”が瞬にこれほど大きな影響を及ぼしたことにも得心がいく。
そう考えて星矢は沙織に尋ねたのだが、人にあらざる人の答えは『NO』だった。
「私には、あの運指は無理よ。私の腕の長さと力では、あの演奏をすることは不可能なの」
「じゃあ、誰なんだよ!」

沙織の他には青銅聖闘士が4人いるだけのピアノ室。
その内の一人は、ピアニストに会うことを切望するあまり心身に異常をきたし、もう一人は、ピアニストの正体が明らかにならないことに いきり立っている。
紫龍がはっとしたように顔をあげるのと、紫龍と同じ考えに星矢が辿り着くのが ほぼ同時だった。
「もしかして、細工なしで、瞬にこれほどの影響を及ぼすことのできる人物というのは――」
「氷河なのかーっっ !? 」
素頓狂な大声を響かせた星矢は、沙織が頷くのを見ても、到底その事実を信じることはできなかったのである。
瞬はなおさら――声も出せない様子で、その場に立ち尽くしていた。

論より証拠というのではないだろうが、沙織が視線でピアノに向かうことを氷河に命じる。
あまり気乗りはしていないようだったが、その命令を下したのが彼の女神ともなれば、氷河も逆らうことはできなかったらしい。
彼はピアノの前に座り、その鍵盤の上に鈍い動作で指を置き、そうして、本当に彼の“音”を奏で始めたのである。

氷河が弾いたのは、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの『ピアノソナタ第14番嬰ハ短調作品27の2 〜幻想曲風に〜』――すなわち、ピアノソナタ『月光』だった。
あのCDにも収録されていた曲だが、今 彼が弾き始めた『月光』は、CDに収録されている演奏とも、もちろん ごく一般的な解釈のもとに為される演奏とも、全く違っていた。
本来は重厚な静けさをたたえ、不安さえ覚えるほど冷ややかな湖上の月を思い起こさせる『月光』第一楽章。
それを、氷河の指――今の氷河の指――は、どちらかといえば温かい、大切な人を気遣い いたわるような優しい響きの曲に作り変えてしまっていた。
CDに収録されていた演奏とは全く印象の違う演奏だが、だからこそ瞬には、今この曲を弾いている人こそがあのCDのピアニストだとわかった。
わかって、唖然としてしまったのである――心底から、唖然とした。






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