氷河のあとを追って庭に出た瞬は、今日の太陽が西に傾き始めていることに、その時になって初めて気付いた。
今日という一日は、ひどく長かった。
そして、慌しかった。
否、今日という日ではなく――沙織にあのCDを手渡されたその日から毎日、瞬の心と時間の感覚はずっと狂いっぱなしだったのだ。
氷河が作り出した“心のこもった”演奏のせいで。
それは結局、瞬ひとりの心の空回りにすぎなかったのであるが。

「氷河、あの……」
ともかく、そのひとりよがりの空回りのせいで、自分は星矢たちにも氷河にも迷惑をかけた。
瞬は何よりもまず、そのことを氷河を謝ろうとしたのだが、氷河は――星矢同様――瞬の謝罪を聞くつもりも言わせるつもりもなかったらしい。
彼は――実に彼らしく――自分の話したいこと(だけ)を話し出した。

「瞬が感動して よろめいてくれるかもしれないという沙織さんの言葉に乗せられて あの演奏を録音した時には、他人の作った曲を使って おまえに俺の気持ちを訴えるのも洒落ているかもしれないと思ったんだが――。俺は、そのあとすぐに、自分がもっと便利な道具を持っていることに気付いたんだ」
「え?」
「人の力を借りて、おまえの気を引いたと思われるのも癪だから、自分の言葉で俺の心を表現してみようと思う」
「あの――」
「瞬。俺は、おまえが好きだ」

いったい氷河は人を驚かすことを趣味にしているのか――。
他人の作った曲より、ピアノの音より、もっと便利な道具――彼自身の言葉。
それは、呼吸することを瞬に忘れさせるほどの力を持つものだった。
恐いほど真剣な目をした氷河に告げられたその言葉のせいで、本当に数秒間、瞬は息が止まった。
とてもありふれた言葉だというのに、それは確かに氷河にしか言えない言葉で、氷河にしかできない表現だった。
それは、氷河だけが瞬だけに言える言葉だったのだ。

「す……すごく独創的だね」
瞬は心底からそう思った――泣きたい気持ちで、そう思った。
氷河にしか言うことのできないその言葉は、どんな演奏より強い力を持った表現で――あのCDを聴いた時よりはるかに強く、それは瞬の心を揺さぶったのだ。

心だけでなく、声も震える。
少しでも油断すると目眩いに負けて倒れそうになる自分自身を懸命に励ましながら、
「僕も、氷河が好きだよ」
瞬は、瞬だけが氷河だけに言える言葉で、彼に答えた。

途端に、それまで固く緊張した表情を崩さずにいた氷河が、ほっと安堵したような笑みを浮かべる。
深海の色をたたえていた氷河の瞳は、瞬時に、晴れた夏空の色をたたえるそれに変わった。
「よかった。ベートーヴェンやモーツァルトに負けたらどうしようかと思った」
「まさか」
微笑んだ瞬を、氷河の腕と胸が抱きしめる。
ショパンやラヴェルの音楽より、それは雄弁で、より正確に氷河の心を瞬に伝えてくれた。

「俺の思いがおまえに伝わったのなら、俺はもう演奏家でいる必要はないし、もちろん作曲家になる必要もないと思う。しばらくはアテナの聖闘士でいることにする。……瞬、本当に好きだ。好きで好きでたまらない」
氷河の言葉と眼差しと胸の温かさ。
少し速い鼓動。
それ以上に正確に氷河の心を表現できる楽器はない。
彼の胸の中で瞬はそう確信し、そして、同じものを氷河に返したのである。






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