聖域に戻ってアテナの指示を仰ぐしかない――と氷河は思ったのである。
少なくとも、氷河には瞬を汚すことはできそうになかった。
ハーデスどころかアテナにも他の誰にも瞬を任せたくない――というのが氷河の本音だったのだが、その我儘な心を抑えるだけの分別は、氷河にもかろうじて残っていた。

「俺と一緒に聖域に来てほしいんだ」
自分の中に残っている分別を必死の思いでかき集め、氷河は瞬にそう告げた。
「聖域?」
氷河の苦悩を知らない瞬は、残酷なほど無邪気な仕草で氷河に首をかしげてみせた。
瞬にとってそれは、噂でしか聞いたことのない場所の名である。
戦う者だけがいる場所、争い事を好まない人間には不適切な場所というイメージが、瞬の心中にはあるのかもしれなかった。
聖域が瞬にふさわしい場所だと断じることは、氷河にもできなかった。

「無理強いするつもりはない。すぐに決めることができないのなら、しばらく考えてくれ」
「僕が――聖域に……?」
「いつまででも待つ。決めるのはおまえだ」
時間はない。
瞬と人間たちに残された時間は少ない。
それはわかっていたのに、氷河がそう言ってしまったのは、人の世を守るために一刻も早く瞬を聖域に連れて行かなければならないと考える分別とは別に、いつまでも二人で こののどかな村で暮らしていたいと望む心が、氷河の内にあったからだった。

瞬と共にいることは快い。
瞬は優しく、やわらかく、瞬の瞳に見詰められると、自分までが浄化され“清らか”になっていくような気分になる。
錯覚とわかってはいても――自分の罪や汚れが消え去っていくようなその感覚は、ひどく快いものだった。
瞬と二人でいると、瞬と共にあることこそが真の幸福というものだと思えてくるのだ。

これまで聖闘士として戦うことに誇りを持っていたし、現実問題として聖域にいれば飢えの心配をする必要がない。
同じ理想と目的を持った仲間がいて、彼等はそれぞれに常人には持ち得ない力を持ち、その中にいる人間は自身の力に思いあがることなく生きていられる。
聖域は居心地がよく、自分には最適な生き場所――この地上にある唯一の楽園とすら、氷河は思っていた。
戦いをつらいと思ったこともなく、むしろ戦いこそが自分の生きているの証なのだと、氷河は思っていたのである。

自らの生きる目的がわかっていること(わかっていると信じていられること)は、たとえ戦いの絶えない日々の中でも、人の心を落ち着かせ快くするものである。
聖域にいる時、氷河は、自分を幸運な男と思い、幸福な人間だとも思っていた。
少なくとも自分を不運だと感じたことはなく、不幸な人間だと思ったこともない。

だが、瞬の側にいる時に感じる快さは、同じ快さでも、瞬に会う以前に氷河が感じていた快さとは全く種類が違うものだった。
それが何なのかはわからない――のである。
瞬とは会って間もない。
二人は同じ理想や目的を共有しているわけでもない。
見知らぬ者同士と言っていい二人だというのに、瞬は、彼にとって異邦人にすぎない男を“善い人”と信じ切っていて、そんな瞬の眼差しは、『瞬の前に善い人間として存在したい』という願望を氷河に抱かせる。

それが不思議に心地良いのだ。
この村の者たちも同じ気持ちを味わっているのだろうと思う。
瞬の影響力は、特に子供たちに大きかった。
瞬の側にいるというだけで、氷河にも親しみを感じるらしく、彼等は氷河にまで無邪気な手と瞳で懐いてきた。

本当のところを言えば、氷河は子供という生き物が嫌いだった。
“子供”は、弱く守られることしかできなかった幼い頃の自分――子供だった頃の自分――を思い出させる。
それは氷河には余り楽しいことではなかったのである。
他人の命と時間を食いものにして生きていた頃の自分を思い出すことは。

「氷河は聖闘士なんだよ。みんなを守ってくれてるの」
瞬が子供たちに そう言うのを聞いて初めて、氷河は、自分が守ろうとしていたものが何であったのかを知った。
そして、アテナの聖闘士として自分が守ろうとしていたものを、実は自分が全く愛していなかったことに気付いて愕然とした。

地上の平和と安寧、正義の実現――実現の難しい理想のために戦っている自分を崇高と思い、自尊心もそれなりにあった。
だが、そこに、愛情がなかったなら――アテナの言う人間たちへの愛がなかったなら――その行為はただの戦闘でしかない。
白鳥座の聖闘士が守さているものは、人間と人間が生きている世界ではなく、人間という概念でしかないことになってしまうのだ。

瞬の側にいると、そんな厳しい現実を思い知らされるのに、氷河はそれすらも心地良かった。
そんな思い上がった男でも、瞬は決して軽蔑したりはしないだろうと信じていられることが快く、氷河は、これこそが本当の幸福感というものなのだと感じないわけにはいかなかったのである。
「聖闘士って、みんな氷河みたいに綺麗なの? 氷河の目は本当にとても綺麗」
そして、“現世で最も清らかな人間”を汚そうとしている男に、そんなことをうっとりした表情で尋ねてくる瞬に、氷河の胸は痛みを覚えた。
だが、その痛みすら――瞬によってもたらされたものなのだと思うだけで、氷河には甘美なもの感じられるのだった。






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