アテナ神殿の正面中央にある高台に立って、アテナは、彼女の聖闘士たちがいる聖域に視線を投げていた。
ここもまもなく戦場になるのかもしれない。
前聖戦で瓦礫の山と化した聖域に、この壮麗を取り戻すために二百数十年をかけた。
その壮麗が、再び打ち砕かれることになるのかもしれない。

『戦いましょう』
アテナの決断に笑って頷いた彼女の聖闘士たちと、彼等にそんな決断をしか与えてやれない自分という神に、アテナは複雑な思いを抱いていた。
もちろん、人間の世界は人間の力によって守られなければならない。
そうでなければ、人間と人間の世界が存在する意味はない。
それはわかっているのだが――。

「本当に馬鹿ね、私の聖闘士たちは」
その呟きは、悲嘆と慈愛でできていた。
「もう少し違う言い方をしてやってもよさそうなものだ」
ふいに背後から、氷河の声が響いてくる。
驚きを表情には出さずに、アテナは氷河をたしなめた。
「お馬鹿さんの筆頭のあなたに、そんなことを言う権利はないわよ」
「もっともなお言葉です」

真顔で頷いてから、氷河はアテナの前に膝を折り、彼女に深く頭を下げた。
「ありがとうございます、アテナ」
「立ちなさい。私はそんな仰々しいのは嫌いよ。そんな礼を言うために来たの? あなたの瞬の側にいてやれば」
「瞬は眠っています。村を出ると決意した時から、瞬はずっと緊張し通しだったらしい。俺のために死ぬ覚悟を決めて」
瞬にその決意を実行に移されるまで、そのことに気付かずにいたことを悔やみ、氷河は唇を噛みしめた。

「あまり自分を責めないことね。瞬はあなたを苦しみから解放するために その決意をしたのだから、あなたには自分の決意を悟られぬよう細心の注意を払っていたのでしょうし」
「……」
それは氷河には慰めにはならなかったらしい。
どうも恋する人間は、必要以上に自罰的傾向に走るもののようだと、アテナは溜め息を洩らした。

「問題は何ひとつ解決していないのだけど、少なくとも恋が一つ実ったようで、それは何よりでした。まったく、アテナの命令で世界の危機を回避するための任務に出た者が、出張先で恋人を拾ってくるなんて、呆れた勤勉振りだわ」
「返す言葉もありません」
アテナの皮肉に、氷河が再度、今度は申し訳なさそうに頭を下げる。
そんな氷河に、アテナはとんでもないことを真顔で言い出した。

「……気休めにすぎないかもしれないけど、身体だけでも汚して・・・おいたら?」
「……」
聖域に帰還するまでは、そうしたい気持ちでいっぱいだった男は、アテナのその言葉に目を剥くことになったのである。
「こんな時に冗談は言わないでください」
「私は、わりと本気なのだけど」
「ご助言には感謝しますが、それは瞬を守り抜いてから――この戦いを戦い抜いてから」
「そんなお硬いことじゃ、いつまで経っても 現世で最も清らかな人間を落とすことはできないわよ」
それは、潔癖な処女神アテナらしからぬ言葉だったが、生きている・・・・・人間の幸福を第一と考える女神としては理に適った助言なのかもしれなかった。
氷河は、だが、首を横に振った。

「瞬は、俺や聖闘士たちを清らかだと言っていたが――俺は、瞬に会ってわかった。清らかな人間というのは、人の心は汚れていないと信じることのできる人間のことだ。そういう人間の前では、人は誰もが清らかになる――優しい気持ちになる。ハーデスはそれを恐れているから、いつも そういう力を持つ者を我が物にして、自分の支配下に置いて、清らかな心の伝播を阻止しようとしているんだ。人間界が清浄になってしまったら、ハーデスは汚れた人間界の粛清という大義名分を失うことになる。それは冥府の王にとっては大いなる不都合だ。“清らか”というのは、無欲だとか、罪を犯していないとか、そういうことではないのだと思う。まして、身体のことではない」

「ええ、おそらく。でも、だからこそ――」
さっさと瞬をものにしてしまえと、処女神アテナが視線でけしかけてくる。
氷河は長い嘆息を洩らすことになった。
「アテナは俺を買いかぶっている。俺は お硬い人間なんかじゃない。必ずハーデスを倒して、瞬を俺のものにする。その件に関して、アテナのご配慮は無用です」

アテナの聖闘士でありながら、アテナの命令――親切な助言――を拒絶する白鳥座の聖闘士に、アテナは微苦笑を浮かべ、肩をすくめた。
「希望は人を強くするわ。では、瞬のためにも、頑張って戦ってちょうだい。そして必ず生き延びて、あなたの“清らかな”望みを叶えなさい」
「俺は、アテナの聖闘士ですから、アテナの命令には絶対服従しますよ」
人間よりも人間らしく、人間よりも人間を愛し信じている粋な女神に白々しくそう言って、氷河が彼の女神に明るい笑みを返す。
その瞳には希望の光があった。






Fin.






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