Love Energy

- I -







この冷たく不衛生な地下牢に閉じ込められてから、幾日が経ったのか。
そんなことすら、瞬には既に わからなくなりかけていた。
太陽や星、せめて外界の風の流れだけでも感じることができたなら、今が昼なのか、あるいは夜なのかくらいはわかるはずである。
だが、ここは、北欧ワルハラ宮の地下深くに、罪人――教主ドルバルにとっての罪人――を幽閉するために作られた地下牢。
換気の考慮すら為されていない、不吉な死の匂いのする場所だった。

四方が石の壁。唯一通路に面した壁の一部に幅50センチほどの狭い出入り口があったが、そこには鉄格子が嵌められている。
床は石すら敷かれていない剥き出しの岩盤で、そこからは北の大地独特の冷気が滲み出ており、それでなくても冷たい牢内を更に冷やすことに役立っていた。
瞬は枷などで自由を奪われてはいなかったのだが、彼の唯一の武器といっても過言ではない小宇宙を封じられていた。
聖衣などなくても小宇宙を燃やすことさえできれば、瞬は過酷な北国の冷たい地下牢にも体温を奪われることはなかっただろうが――それどころか、地下牢の石の壁を打ち砕くことも簡単にできたのだが――、小宇宙を生じることのできない瞬は、親を見失った生まれたばかりの子猫のように無力だった。
この地下牢に見張りがついていないのも、瞬をこの牢に閉じ込めた者が、今の瞬が猫よりも無力な存在だということを承知しているからに違いなかった。


北欧神話の主神オーディーンの地上代行者ドルバルの支配する北の国に不穏な空気があるという情報が聖域にもたらされたのは、ギリシャが春という季節を迎えようとしていた頃。
その時点ではまだ、ドルバルとその配下の者たちは 直接聖域に対して敵意を見せてはいなかった。そういう相手に聖域側から攻撃的な対応をとるわけにはいかず、アテナはまず、もたらされた情報の真偽を確かめることにしたのである。

そうして、瞬――アンドロメダ座の聖闘士――は、それが杞憂であることを願うアテナの親書を携えて、教主ドルバルの居城であるワルハラ宮を訪れた。
ギリシャでは春の花が咲き始めていたというのに、彼の城の周囲はまだ冬だった。
ワルハラ宮の姿はさながら雪と氷でできた壮麗な城。
だが、その美しい城は、実際には氷よりも冷たく不吉なものでできていたのだ。

最初のうち、教主ドルバルは紳士的だった。
聖域からの使者である瞬に――ただのメッセンジャーでしかない瞬に――不相応なほどのもてなしを施してくれた。
瞬は、ドルバルに対して良い印象を抱くことはできなかったが、表面上は友好的に振舞うドルバルの隙のなさに、自分は親書を渡すだけで帰るしかなさそうだと思っていた。
教主以外の者が入ることを禁じられた祈祷所で、ドルバルが呪詛のような祈りの言葉をオーディーン神像に投げかけている姿を見るまでは。

雪と氷に閉ざされた北の国を出て、南方に侵略の手を伸ばすこと。
そのためにまず、女神アテナに統べられている聖域を支配するつもりでいること。
それだけなら、瞬も、ただの世迷言のような祈りと思うことができただろうが、瞬が更に探りを入れると、ドルバルが彼の野心を実現するために、近隣の村々から健康な男子を無理に徴集し、私兵を養っていることがわかったのだ。
その中には、聖闘士に匹敵する力を持つ者――神闘士と呼ばれる者――も幾人かいたのである。

その事実を探り出しても、瞬一人では何をすることもできない。
まず、この北欧の現状をアテナに報告することが第一と考え、瞬は急いでワルハラ宮を抜け出した。
一刻も早くドルバルの野心をアテナに知らせなければならないという焦慮が、瞬に判断ミスを犯させた。

ドルバルの野心になど気付いてもいない振りをして、優雅に彼に辞去の挨拶を告げてからワルハラ宮を出れば、こんなことにはならなかったのかもしれない――と、後になってから瞬は思ったのである。
悔いを伴った その考えを、瞬はすぐに放棄したが。
それでも結果は同じだったろうと思う。
最初から彼は、瞬をワルハラ宮から出すつもりはなかったのだ。

ドルバルの居城を抜け出して いくらも行かないうちに、瞬はドルバル配下の神闘士に捕えられた。
瞬は、最初から、そして常に、彼等に見張られていたのだ。
ドルバルの前に引き出された瞬に対して、本性を現わした北の国の支配者は、アテナへの忠誠を捨て彼への忠誠を誓うことを強要してきたのである。
もちろん瞬は拒んだ。
その結果、“どちらに従う方が得策か、冷静に考えられるように”聖衣を奪われ、この地下牢に閉じ込められてしまったのである。
野心に濁った目をしたドルバルは、だが、その身に備えた力は強大で、確かに強さだけならアテナに匹敵するものを持っていた。
その力によって、瞬は小宇宙を封じられてしまったのである。

10分いたら寒さに凍え手足を思い通りに動かすこともできなくなるような地下牢の壁や床には、血がこびりついているような気がした。
事実そうなのかどうかは瞬には確かめようもなかったが、そこは、かつてドルバルに逆らって この牢に収監され なぶり殺しにされた者たちの無念がこもっているような場所だったのだ。
瞬は、拷問はされなかった。
とはいえ、拷問されないこと自体が、瞬には拷問だったのである。

自らの野心が挫かれる可能性を、ドルバルは考えていないようだった。
聖域侵略のための準備は着実に進んでいるらしく、ドルバルの表情はいつも余裕に満ちていた。
彼は、地下牢に閉じ込められている瞬のところにしばしばやってきて、そのたびに瞬の考えが変わったかどうかを尋ねることをした。
「まだ、余のものになる気にはならないか」
――と。

瞬は彼の従者になることを頑として拒み続けたが、ドルバルはそれで怒気を露わにすることはなかった。
命の危険を感じるようになれば、たとえアテナの聖闘士といえども命を惜しむようになり北欧の支配者に屈するものと、彼は確信しているようだった。
その程度の者と見くびられている屈辱、そして、地下牢の低温よりも、虜囚を見やるドルバルの目の方が、瞬には耐え難いものだった。

聖衣を奪われ、瞬は手足が剥き出しになる簡素な貫頭衣を着せられていた。
簡素と言えば聞こえがいいが、要するにそれは下着だった。
その瞬の身体を舐めるように見詰めるドルバルの目。
彼は決して牢内にいる瞬の身体に触れるようなことはしなかったが、彼の視線はじかに触れられるより なまなましい感覚を、瞬の肌の上にもたらした。
彼の視線を我が身に感じるたびに、瞬はぞっとした。

彼が彼に逆らう者に拷問を加えないのは――その道具は揃っているというのに、それを部下に命じないのは――そんなことをして虜囚の身体に傷をつけたくないからだと、彼は瞬に明言した。
「汚れも傷もなく美しいものほど、傷付け汚す喜びを大きくしてくれる」
粘り絡みつくような声で、彼は瞬にそう告げさえした。
拷問しないことが拷問なのだと瞬に知らせることで、彼は瞬を戦慄させた。
彼は、アテナの聖闘士が飢えと寒さに屈して、彼の前に膝を折るのをゆったりと待っているのだ。
瞬はぞっとして、剥き出しの岩の上に薄く積もっていた土や砂をかき集め、それを顔や手足にこすりつけ、我が身を汚すことさえした。

手に入れた玩具をいたぶるために頻繁に地下牢を訪れていたドルバルが、瞬の前に姿を現わさなくなって幾日が過ぎただろうか――。
おそらく2日ほど――と瞬は考えたのだが、時間の感覚が狂いかけていた瞬は、もちろんそれを時計や暦で判断したわけではない。
瞬の判断の根拠は、自分の身体の衰弱の程度だった。
ドルバルは頑固な玩具をいたぶることに飽きたのか、あるいは、虜囚にかまけていられなくなるような事件がワルハラ宮に起こったのかと訝りつつ、瞬は氷のように冷たい石の床に横になった。
ここにはベッドもない。
瞬にはほとんど食べ物も与えられていなかった。
空腹で胃が痛んでいた時もあったが、瞬は既にその痛みも感じなくなっていた。

自分はここで死ぬのかもしれない――と、瞬は思ったのである。
せめてドルバルの企みをアテナに知らせたかったが、それも叶わないまま。
アンドロメダの聖闘士が聖域に帰らないことで異変を察知したアテナが、聖域を守るために何らかの措置を講じてくれるのを願うことだけが、今の瞬にできる唯一のことだった。

(死ぬの……僕は……)
ここでむざむざ犬死にをするくらいなら、ドルバルに偽りの忠誠を誓って生き延び、隙を見てアテナの許に走る方が、よほどアテナの聖闘士としての務めを全うすることになるのかもしれない。
生き延びたいからではなく――むしろ、死を間近に予感するからこそ、瞬はそう思った。
だが、ドルバルが忠誠の証として自分に何を求めるのかが容易に察せられるだけに、瞬はその策を採る気にはなれなかったのである。
北の国の支配者は彼なりの誇りがあるらしく、虜囚に無理強いをする気はないようだった。
彼の力に屈した者が屈辱に耐えながら自発的に彼に奉仕する様を眺めることが、彼の望みであるらしい。
その望みが叶わないのなら、面白みのない玩具など死んでしまっても構わないと、彼は思っているようだった。

ドルバルの要求を拒み続ければ、このまま死ぬ――死ぬことができる。
しかし、それでは聖域に迫る危機をアテナに知らせることも、その危機を回避することもできない。
結果として、これまで瞬がアテナのもとで守り続け、願い続けてきた 希望に満ちた人間の世界は失われてしまうかもしれない――のだ。

次にドルバルがこの地下牢に姿を現わしたら、自分は彼に屈してしまうかもしれない――と、瞬は靄のかかり始めた意識の中で思ったのである。
死ぬことは楽である。
死んだ者は、その者に負わされた すべての義務と責任と苦痛から逃れることができるだろう。
それはアテナの聖闘士といえども例外ではない。
だが、瞬は、聖域とアテナがドルバルの手に落ちることだけは我慢ならなかった。
そんなことになったら、死んでも死に切れない。
そして、我が身があの男に蹂躙されるのも嫌だった。

瞬は泣きたい気持ちになったのである。
だが、瞬の身体はもはや涙を生む力さえ有していなかった。
自分はどうしたらいいのか、どうすべきなのかを迷う以前に、今の瞬には“何かをする”力さえ残っていなかったのである。

結局 何もできぬまま、まもなく自分はここで死んでいくのだ――その無情な現実を瞬が自覚した時。
「誰かいるのか――?」
冷気の他には死にかけたアテナの聖闘士しかいない不吉な地下牢に、若い男の声が響いてきた。






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