さて、アテナ神殿でそんな大騒ぎが起きている時、当の瞬王子はどうしていたかというと。 実は、どうもしていませんでした。 もちろんアテナの神託は知らされていましたが、その神託が巻き起こしている騒ぎは、いってみれば当の瞬王子を置き去りにして起こっていること。 瞬王子は相変わらず、王宮を出ることなく、お城のお部屋やお庭で、これまでと変わらぬ日々を過ごしていたのです。 ところで、瞬王子には、氷河という名の従者が一人いました。 お城から滅多に出ることはないとはいっても、城内で人の行き来はありますし、勝手がわかっているお城の中とはいえ、目の見えない瞬王子が一人で歩いているのは危険ですからね。 彼は、瞬王子の目が見えなくなった時、瞬王子のお母様が瞬王子の遊び相手として 特に選んだ少年でした。 身分はさほど高くありません。 たった一人の肉親である母君は、瞬王子の母君の侍女だったのですが、彼は当時 その母君を病気で失ったばかりだったのです。 そんな少年なら、父君を失ったばかりの瞬王子を気遣うことができるだろうと、瞬王子の母君は考えたのでしょう。 最愛の夫だけでなく自分自身も まもなく儚くなってしまうことを、瞬王子の母君は予感していたのかもしれません。 氷河は、幼い頃からずっと――青年と言っていい年頃になった今まで――片時も離れることなく、瞬王子の護衛をしていました。 一人で自室にいる時以外、瞬王子の側に氷河の姿がないことはありませんでした。 というより、瞬王子は、氷河が一緒でないと部屋を出ることをしなかった――できなかったのです。 氷河は、瞬王子の目と言っていいような存在でした。 「氷河。花というのは、とても綺麗なものなんでしょう? 形はこうして触れて確かめられるし、それがどんな姿をしていたのかは、ぼんやりと憶えてはいるんだけど――」 “瞬王子の目”と、瞬王子が認め、城中の誰もが認め、彼自身そうありたいと望んでいる氷河でも、花の佇まいを瞬王子に知らせることはできませんでした。 花の形や色はともかく、その可憐で健気な印象は、人がそれぞれの心で感じ見るもの。 氷河がどれほど言葉を尽くして、その様子を説明しても、それは瞬王子が自分自身の目で見る花とは違うものになってしまうのです。 瞬王子がお城の外に出なくても自然に触れることができるようにするために作られたお城の庭の小さな花園の中に佇む瞬王子が、氷河の目にどれほど可憐で健気に映っていたとしても、その気持ちを正しく理解できるのは氷河だけであるように。 「空や海も憶えているの。でも、空や海は毎日様子を変えるものだから、今僕の上にある空と、僕の記憶の中にある空は別物なんだろうね」 少し寂しそうに そう言う瞬王子に、どんな言葉をかけてやればいいのかが、氷河にはわかりませんでした。 瞬王子が瞬王子の心でしか見ることのできないものを、他人が他人の言葉で知らせても、それは嘘になってしまいます。 瞬王子に嘘をつかないために、氷河は、話題を客観的な事実だけを伝えることのできるものに変えることにしました。 「昨日、スパルタ王家の姫君が、自国の王冠を持ってアテナ神殿にやってきたという話だ。だが、あの箱の蓋は開かなかったそうだ」 「そう……」 氷河の言葉を聞いて、瞬王子が溜め息を洩らします。 自分のあずかり知らぬところで起きている様々な出来事。 自分の一生に関わることだというのに、瞬王子はそれらの出来事を、自分のいる世界とは違う世界で起きていることのようにしか感じることができませんでした。 引きも切らずにアテナ神殿を訪れているという少女たちはすべて、瞬王子にとっては見知らぬ人たちでしたから。 「スパルタ王家の姫君なら、誇り高い姫君に違いないよね。傷付いていないといいけど」 「そうだな」 瞬王子の優しい心には頷きながらも、氷河はスパルタの王女の贈り物を実に馬鹿げた贈り物だと思っていました。 瞬王子がそんなものを望んでいないこともわからないような人間が、瞬王子の永遠の伴侶になどなれるはずがありません。 そんなことがあってはならないと、氷河は思っていました。 とはいえ、『では、どんな少女なら瞬王子にふさわしいのか』と問われると、氷河も答えに窮してしまうのです。 たとえ どれほど美しく気高く心優しい姫君が現われたとしても、その姫君が自分より瞬王子を愛することがあるなどとは、氷河には思えなかったので。 このまま永遠に、誰もアテナの小箱を開けることができなければいい――というのが、決して言葉にすることのできない氷河の望みでした。 そうすれば、彼はいつまでも瞬王子の目として瞬王子の側にいることができます。 氷河は、瞬王子を心から愛していました。 |