瞬王子に贈る物を何一つ持っていない我が身を、氷河は忘れてはいませんでした。
氷河は、瞬王子に何を与えることもできません。
ですから氷河は、瞬王子を我が物にすることは諦めていました。
でも、だからこそ――その日、氷河はアテナ神殿に赴いたのです。

アテナ神殿で――彼は、アテナに『瞬に選ぶ権利を与えてくれ』と願うつもりでした。
太陽は昇りきっておらず、まだ朝とも呼べないような時刻。
昼間は瞬王子への贈り物を携えた者たちや アテナへの祈りを捧げる者たちでごったがえす神殿内に人の姿はなく、ただ静寂と神灯の炎だけが揺れています。
(……?)
ちょうど見張りの兵の交代時刻。誰もいないはずの神殿内に微かな空気の流れを感じた氷河は、にわかに全身を緊張させたのです。

誰もいないはずの早朝、誰もいないはずのアテナ神殿に、人の姿が一つありました。
それは、あろうことか瞬王子――氷河と一緒でなければ自分の部屋を出ることもしない瞬王子その人でした。
覚束ない足取りで聖壇に近付き、瞬が氷河の目の前でアテナの小箱を手に取ります。
いったい瞬は何をするつもりなのかと氷河が息を呑んだ時、瞬王子は小箱を掴んだ両腕を大きく頭上へと振りかざしました。
そして、瞬王子は、それを大理石の床に叩きつけようとしたのです。

(瞬……!)
もし瞬王子がそんなことをしてしまったら、アテナの怒りを買った瞬王子の身にどんな災いが降りかかってくるかわかりません。
瞬王子にそんなことをさせるわけにはいきません。
けれど、瞬王子の手は既に動き始めています。
駆け寄って瞬王子を押しとどめるには、二人の間には距離がありすぎました。
氷河は、だから、叫んだのです。
瞬王子に対してではなく、瞬王子にこの運命を授けた女神アテナに向かって。

「アテナ! 俺は瞬に俺の目を贈ります。俺の光を見る力、悲しみを見る力、喜びを見る力、すべてを瞬に贈ります。瞬にこの世界を見せてやってくれ! そして、瞬が共に生きる相手を、瞬自身に選ばせてやってくれ!」
「ひょう……が……?」

瞬王子の手を離れ床に叩きつけられる寸前だったアテナの小箱の蓋が開いたのは、その時でした。
中から、陽光よりも眩しい光があふれ出て、広い神殿の中を真昼のように明るく照らします。
あまりの眩しさに、氷河は目を開けていることができなくなりました。
一瞬 目を閉じた彼が、瞬王子の許に駆け寄ろうとして再び瞼を開けた時、彼の目の前にあったのは深い闇――ただただ広く深い闇だけだったのです。
自分の立っている場所を認識することができずに、氷河はその場に膝をつき、崩れ落ちました。

こんな闇の中で、瞬王子は長い時を過ごしてきたのでしょうか。
だとしたら、この深い闇の中で母を恨まず周囲の人々の思い遣りを信じて生きてこられた瞬王子は、恐ろしく強い人間です――氷河はそう思わずにはいられませんでした。
そして、もちろん、氷河は自分の願いを後悔してはいませんでした。






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