- II -






今度のエティオピア国王の敵は、エティオピアの第二の都市を根拠地にした神殿の神官――という話だった。
エティオピアの不死鳥は、もちろん勝利を得て、4、5日中には帰ってくるだろうと、守兵たちは請け負ってくれたのだが、その4、5日の間、氷河は生きた心地もしなかった。
エティオピア国王は勇敢で戦上手。国の統一と安寧の実現という、万人に理解される戦の目的も持っている。
彼が敗北を喫することは、まずありえないだろう。
エティオピア国王は彼の“お気に入り”である瞬の身を危険にさらすようなこともしないはずである。
そう幾度自分に言い聞かせても、氷河の不安は消えなかった。
何が起こるかわからないのが、戦場という場所なのだ。

5日目の朝、国王軍の勝利と王の無事の帰還を知らせる早馬が来たことを、小間使いが氷河に教えにきてくれたのだが、その知らせを聞かされても、氷河は全く安心できなかった。
氷河が知りたいのはエティオピア正規軍の勝利でもなければ、エティオピア国王の無事でもない。
瞬が生きていること。
ただそれだけだったのである。
幸い、氷河の願い――瞬の無事を確かめること――は、その日の夕刻には叶えられることになった。

城内が騒がしくなったのは、牢獄代わりの豪奢な部屋を出ることを許されていない氷河にもわかった。
瞬が言っていた『これをエティオピアの最後の戦にする』という言葉が真実なら、この戦の勝利によってエティオピア国内から不穏分子は一掃されたことになる。
エティオピア国王は、その旨を彼の兵と家臣たちに宣言し、彼の兵たちに休息を約したのだろう。
城内の空気は明るく弾んでいた。
氷河は、しかし、エティオピアから戦がなくなることを喜び浮かれる気分にはなれなかったのである。

他国のことでも、それは非常に喜ばしいことだとは思う。
だが、エティオピアという国の去就など、今の氷河には本当にどうでもいいことだったのだ。
一刻も早く瞬の無事な姿を確かめたいのに、瞬は一向に氷河の牢獄にやってくる気配を見せない。
軍の帰還に伴って生じる雑務など放っておいて、まず最初に彼の身を案じている者の前に その姿を見せるのが人の道だろうと、氷河は瞬の無情を恨むほど じりじりしながら、瞬の訪れを待った。
瞬がやってきたら その無情と無謀をあげつらい責め立ててやろうと固く決意して。

だが、実際に瞬がやっと彼の前に姿を現わしてくれた時、氷河は瞬にぶつけるべく用意していた言葉のどれ一つとして――ただの一つも、口にすることはできなかったのである。
「氷河、ただいま。いい子にしてた?」
そんなふざけた帰還の挨拶を投げてくる瞬を責めることすら、氷河にはできなかった。
瞬との再会が叶うなり、氷河は ものも言わずに瞬の無事な姿を抱きしめた。
それだけでなく、瞬の唇を、それこそ噛みつくような勢いで貪った。
殴られようが なじられようが構わない。
床に押し倒されて激情のまま犯されないだけましだと思え――という気持ちすら、氷河の中にはあった。
これほど人に心配させて、『ごめんなさい』の謝罪程度では許されない罪を、瞬は犯したのだ。

もしかしたら瞬は、こういう行為自体、これが初めてのことだったのかもしれない。
氷河に唇と舌とを解放されるなり、やっと息ができるようになったというような様子で、大きく息を吸い吐き出し始めた瞬を見て、氷河はその可能性に思い至った。
だとしたら、自分は別の意味で瞬に罪を犯してしまったのかもしれない――と、氷河は思ったのである。
初めてのキスの相手くらい、瞬は自分で選びたかっただろう――と。

「瞬……」
「あ……」
気遣わしげに氷河が瞬の名を呼ぶと、瞬は頬を真っ赤に染めて顔を俯かせてしまった。
その様を見て、どうやら自分は殴られずに済みそうだと、氷河は心を安んじることになったのである。
となれば、やはり許されない罪を犯したのは瞬一人だけだということになる。
氷河は、きつい口調で瞬を問い質した。

「これが本当に最後の戦いなんだな!」
瞬が、顔を伏せたまま、小さく頷く。
にわかには信じ難くて、氷河は更に念を押した。
「本当だろうな」
「ほ……本当だよ」
「今度おまえを戦に駆り出そうとしたら、俺は必ずエティオピアの王を殺すぞ!」
「ひょ……氷河、落ち着いて。僕はこうして無事に帰ってきたんだよ。氷河には僕の姿が見えていないの」

物騒な宣言を聞かされて、瞬はやっと、そして慌てたように、顔をあげた。
「次も無事だと、誰が保証してくれる」
苛立ちをぶつける場所を求めるように、氷河は再び瞬をきつく抱きしめた。
抱きしめる力が強すぎたのか、瞬が小さな悲鳴をあげたのだが、その時 氷河は瞬を抱きしめているというより、瞬にすがっている心境でいたのである。

エティオピア国内がおさまったからといって、安心はできない。
エティオピア国王が敵を求めれば、それはエティオピアの外にいくらでも存在するのだ。
瞬を抱きしめたまま、完全な安心を手に入れるために、氷河は自分の腕の中にいる者に尋ねた。
「エティオピア国王は、ヒュペルボレオイ――他国への野心はないのか」
「この国の王が他国を侵略することはありません。でも……」
氷河の胸に頬を預けたまま、瞬が答える。

「でも? でも、何だ」
「それは、ヒュペルボレオイの王と民次第だと思う。ヒュペルボレオイの王が善政を布いていて、 ヒュペルボレオイの民が他の王を望まないのなら、エティオピアの王もこの国を出ることはしない。ヒュペルボレオイの民に恨まれるだけだから。でも、ヒュペルボレオイの王が民を苦しめていて、民が別の支配者を望むのなら話は別だよ」
瞬の主張には一理がある。
しかし、それは、他国の独立と主権を侵害する侵略者の理屈にもなりえる危険な考えでもあった。

「ヒュペルボレオイは、今は平和を保っている。いい国――だと思う。瞬、俺と一緒に来てくれないか」
「え」
「俺と一緒にヒュペルボレオイに来てくれ。おまえと離れている間、俺はおまえが心配でならなかった。おまえがこれほどの忠誠心を抱く人間なんだから、エティオピア国王は優れた男なんだろう。だが、おまえを戦場に駆り出したりするような男の許に、おまえを置いておくことはできない。俺がおまえを守る。だから、俺と一緒に――」
抱きしめられ唇を奪われても、瞬は不快の念を見せない。
おそらく瞬もそれを望んでいる――この恋の成就を望んでいる――と、氷河は確信していた。

だが、瞬は、氷河の期待を裏切った――のである。
「それは……無理だよ」
「なぜだ! おまえは俺が嫌いなのか!」
「き……嫌うも何も――嫌えるほど、僕は氷河を知らない。僕たち、知り合ってまだほんの――」
「瞬……!」
嫌えるほど知り合っていないから、瞬は“嫌いではない男”からのキスも抱擁も受け入れたというのだろうか。
氷河は瞬の腕を掴みあげ、その非情を非難するような声で、瞬の名を呼んだ。
それは居丈高にも響くものだったが、事実はそれは懇願だった。
瞬の好意、瞬の優しさ、瞬の聡明、瞬の愛を求める男の悲痛な懇願にすぎなかった。

氷河の心の呻きに気付いているのかいないのか、瞬がほのかに頬を上気させ、俯く。
そして、瞬は小さな声で告げた。
「好きになれるだけの時間は一緒にいたと思うけど」
これはエティオピア人特有の焦らし方なのかと、氷河は、焦慮と喜びがないまぜになった気分を味わうことになったのである。
ともかく、氷河は、瞬の可愛らしい告白に力を得て再び瞬を抱きしめ、薄い朱の色を帯びた瞬の瞼や頬に唇を押しつけた。
「瞬! なら一緒に! 俺は、おまえと離れていたくない!」
「無理だよ。この国が――王が許さない」
「王が……?」

『王が許さない』
瞬の唇がその男について語るたび、氷河は不快を感じるようになりつつあった。
不死鳥の名を冠されたエティオピアの無敗の王。
氷河は、彼がシュルティスの反乱を 簡単な食事をとるほどの時間もかけずに撃退した時、あの丘の上でエティオピアの不死鳥の戦い振りを眺めていたヒュペルボレオイの人間たちの中の一人だった。
圧倒的に不利だった戦局をただ一人の力で覆し、あっという間に自軍に勝利をもたらしたエティオピア王国の鬼神。

彼と共に戦って、彼に心酔しない兵はいないだろう――と思う。
“お気に入り”と呼ばれるほど、その王に目をかけてもらっている瞬が、エティオピア国王を裏切ることはできないと感じることは当然のことだろうとも思う。
だが、その偉大な王は、瞬を、瞬の嫌いな戦の場に連れて行くような男なのだ。
そんな男の許に瞬を置くことはできない。
氷河は、瞬を、この城から、この国から、この国の王の許から連れ出したいと思い、そうすることを決意した。
彼は、そう決意しなければならなかったのだ。
瞬のために。
たとえ それが瞬の意に沿わないことであったとしても、瞬の命以上に価値のある宝石はこの地上に存在しないと、氷河は信じていたから。






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