瞬と同じ寝台にいると際限なく求めてしまう自分がわかっていたので、瞬が意識を手放したのを認めると、氷河は瞬の寝台から抜け出した。 ベランダから見える月の位置は、彼がこの部屋に忍び込んだ時とは違う方角の空で、ほの白い光を放っている。 氷河がそこに姿を現わすのを待ちかねていたように、夜の庭から、王を呼ぶ低い声が響いてきた。 「陛下」 氷河は渋い顔になった。 彼は、できればもうしばらくの間 ひとりで、瞬との交合の余韻に浸っていたかったのだ。 だが、世俗の声は、崇高な恋に身を焼く人間に対しても容赦がない。 「陛下。夜遊びのためにこんな遠出をなさるとは軽率にもほどがあります。一刻も早く王宮にお戻りください。我が国の官僚たちがいかに有能でも、国政には王の決定を仰がなければ立ち行かないことというのがあるんです」 「よく、ここがわかったな」 「陛下は目立ちますから」 「俺も早く帰らなければならないとは思っているんだが、それができなくなった」 「できなくなったとは」 「ヒュペルボレオイの王はエティオピアの王に恋をしてしまったんだ。これは閣議にかけられるような議題でもないし、どうしたものかと月に相談していたところだ」 「は?」 自分の主君はいったい何を寝とぼけたことを言っているのかと、エティオピアの王宮の夜の庭で、ヒュペルボレオイ政府から派遣されてきた急使は思った――らしい。 あるいは、長い夜遊びの言い訳にしても、それは出来が悪すぎる言い訳だと。 「エティオピアの国王は天を衝くような無骨な大男と聞いていますが」 「実際には、エティオピア国王は白い花のように可憐な姿と心の持ち主で、俺はどうも本気で参ってしまったらしい。俺はもう、瞬なしでは書類に公印を押す力すら持てそうにない」 「氷河……」 その可憐な花が、いつのまにか寝台を出て、ベランダに立つ氷河の姿を見詰めていた。 「氷河……が、ヒュペルボレオイの国王?」 「瞬……」 瞬の瞳が思い詰めた色をたたえているのは、氷河が隣国の王だということを知ったからではなく、氷河がそういう立場にある人間だというのなら この恋は実らないと、そう思い込んでしまったからのようだった。 氷河は慌てて瞬の側に駆け寄ると、その肩を抱き、瞬を月明かりに照らされているベランダに連れ出した。 そして、夜の庭に向かって王の恋人を紹介する。 「どうだ。俺がエティオピアで出会った恋人だ」 「実に美しいですな。鬼神より手強そうだ。ともかく、お帰りを」 「先に帰っていろ。俺はもう一度瞬を抱いてから帰る」 言って聞く王ではないことを、夜の庭は知っているらしい。 王命が発せられると、エティオピア王宮の庭に僅かに漂っていた人の気配は消え、まもなくそこは本来の――人気のない夜の庭に戻っていた。 「帰ってしまうの……」 そう尋ねてくる瞬の声は涙を含んでいて、氷河は、瞬はこんなに頼りなく心細げな印象の勝った少年だっただろうかと、疑うことになってしまったのである。 もし瞬をこんなふうに変えてしまったものがヒュペルボレオイの王との恋だというのなら、氷河は瞬を元の瞬――彼が恋した、聡明で意思的な瞬に戻さなければならないと思ったのである。 国の王が恋で破滅するのは、当の恋人たちだけでなく、周囲の人間の運命をも狂わせてしまいかねない危険なことだった。 ――瞬の兄のように。 氷河は瞬を寝台に誘いながら、意識して明るい声で彼に告げた。 「こういうのはどうだ。エティオピアとヒュペルボレオイはこれから友好条約を結んで、交易に力を入れる。ヒュペルボレオイの都からエティオピアの都まで、そのための輸送路を整備する。最短距離で道が整備されれば、ヒュペルボレオイの都から、この城まで馬を飛ばして半日。週に一度くらいなら、俺はおまえの寝室に通ってこれる」 「氷河……」 「俺は、不出来な前王の失策を贖うため、国のため民のために戦い続けてきた。国と民のために務めるのが王の義務だとも思っている。だが、国と民のために自分の恋を諦める気はないぞ!」 「あ……」 絶望は愚か者の結論である。 国も、戦も、人の命も、恋も――すべてのものが“終わる”のは、それらの事柄に関わる人間が『もう終わりだ』と諦めた時だけなのだ。 仮にも一国の王が 何事もすぐに諦めてしまうような人間であったとしたら、それは国の存続自体が危うくなる。 幾多の戦いや試練を乗り越えて、今ここに王として在る瞬にも、それはわかっていたらしい。 「あ……あの、エティオピアとヒュペルボレオイの国境に関税施設を設けたらどうかな。エティオピアとヒュペルボレオイが正式に交易を始めることになったら、それはどうしても必要な施設でしょう? そこに、僕たちが視察に行った時に過ごすための小さな部屋を作るの。国境までなら、午後の執務を終えてから城を出れば、夜にはつける」 一方の王が もう一方の王の許に通うのではなく、二人が合流地点を決めて、そこで逢うことにすれば、恋の道行きは半日の半分で済むという計算である。 「それなら、週に一度なんて、禁欲的なことをしなくても済むな」 ひどく恥ずかしそうな様子で、実に建設的な提案を提示してくる瞬を見て、氷河は安堵の胸を撫でおろした。 瞬は、恋で弱くなる人間などではない。 ならば、この恋は成就するのが必然の恋だった。 二つの国の王は、愛し合っているのだ。 「いいか。俺たちは、必ず幸福になるぞ」 「うん」 氷河の声と眼差しの力強さにつられるように、瞬もまた、唇を固い決意に引き結んで、氷河に力強く頷き返す。 それから瞬は、涙と恥じらいのせいで少し赤味を帯びた目を細め、噛みしめるような声で、 「氷河と一緒なら、僕は死の国でもどこででも幸せでいられそう」 と言った。 予感を現実に変えるのは、人の強い意思である。 幸福を願う強い意思の力に、二つの国の王は恵まれていた。 Fin.
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