だというのに、瞬は、まるで神の最後の審判を待つ思いでいた俺に、 「ハーデスの言うことなんか気にしなくていいよ。身体が元に戻ったのなら、それはよかった。本当に」 ――そう言ったんだ。 俺を責める響きなど かけらほどにも混じっていない穏やかな、優しい声で。 「瞬……」 瞬の声に、そして、眼差しに、俺を責める様子のないことは、だが俺の心をかえって落ち着かなくした。 瞬は暗愚な人間ではないし、鈍感な人間でもない。 瞬は、俺が瞬に為したことが卑劣な行為だということをわかっているはずだ。 なのに、なぜ瞬はこんなに穏やかでいられるんだ。 瞬の意想外に穏やかな態度が俺の心を乱したように、それはハーデスの心を苛立せるものでもあったらしい。 次に声を荒げたのは、瞬ではなく冥界の支配者だった。 『瞬。いい加減に人間になど愛想を尽かしたらどうだ! 奴等はそなたを傷付けることしかしない。誰も彼も――そなたの仲間でさえ、こうしてそなたを傷付ける。この人の世には、そなたを傷付ける者しかおらぬ。それがわからぬほど、そなたは愚かではあるまい!』 「あなたがそんなふうに人間を貶めようとするのは、一人きりでは生きていない人間を妬んでいるからなの?」 『なに……?』 瞬の反駁は――それは反駁というには あまりに穏やかで、同情の色さえ帯びたものだったが――ハーデスには思いがけないものだったらしい。 思いがけないというより、人間というものへの糾弾に対する答えが 「そんなふうに考えられたら楽だろうね。自分は誰も傷付けていない、自分だけは被害者だって。そして、自分に都合の悪いことすべてを他人のせいにして、自分以外のすべてを憎むことができたなら、確かに 生きていることは とても楽なことになるでしょう。でも、それは寂しすぎる……」 『寂しくなど――いや、もしそなたがそれを寂しいと感じるのなら、だからこそ余の許に来ればよいではないか。余を受け入れ、人間共には及びもつかない力を手に入れればいい』 「それは寂しい者同士で傷を舐め合うため? 僕は、そんな無様なことはしたくない」 『この男は、最初からそなたを手に入れることを目的として、そなたの身代わりになったのだ。そんな男のために、そなたが犠牲になることは――』 ハーデスは、俺の醜い欲心を――俺自身さえ自覚していなかった醜さを、俺よりよく知っている。 瞬は、だが、冥界の王の言葉を遮った。 「僕は、あなたより氷河を知ってる。氷河はそんなことのできる人間じゃない。氷河は、最初は本当に僕のために自分の命を捨てようとしたんだよ。氷河は僕のために、あなたの残酷な遊戯の中に我が身を投じたんだ。氷河は優しい。少しだけ心弱かっただけ。人間はみんなそんなで、だから自分が傷付かないために人を傷付けてしまうこともあるけど、それは――人間だから仕方がないの。人間は、本当は誰だって人を傷付けたりなんかしたくないって思ってる」 「瞬……」 俺はその時――なぜだろう? 瞬の兄のことを思い出していた。 瞬のために自ら死の島と呼ばれる場所に行き、瞬の敵となって戻ってきた瞬の兄。 そうだ。 俺は、奴と同じことをしたんだ。 そして、あの時、瞬は、弟の命を奪おうとした兄をさえ許そうとした――。 『人間とは弱いものだ。その意見には余も賛同しよう。だが、だからといって、そのようにそなただけが傷付き、許す立場に立たされるのは不公平だとは思わぬのか。そなたは、そなたの強さで、そなた自身を傷付けている!』 「他にどうしろというの! 僕は氷河が好きなんだよっ! 僕は、僕を傷付ける人たちが好きで、大切で、失いたくない。彼等の弱さを認め受け入れること以外、僕に何ができるっていうの!」 瞬は――何を言っている? 「そうだよ。僕は傷付いている。誰も彼もみんなが僕を傷付ける。だからって、僕を傷付ける人たちをみんな避けて、そして、最後に一人ぽっちになれというの。あなたみたいに!」 瞬がこれほど激している様を、俺はこれまで一度も見たことがない。 俺の知っている瞬はいつも、仲間たちからさえ一歩引いたところに立ち、声を荒げて人を責めることなどできそうにない大人しい人間だった。 『その方が楽ではないか。下劣な者たちに煩わされることもなく、誰に傷付けられることもない』 「でも、結局は寂しくなって――あなたは、僕を自分のものにすることを考えた。あなたの言う“清らかな人間”って、あなたを傷付けない人間ということなんでしょう? 他人を傷付ける術を持たないような人間を自分の器に選んで、あなたはあなたを孤独にした世界に復讐しようとしている。でも、それで傷付くのはあなたの方だよ。あなたの選んだ者たちには、あなたの他に愛している人がいるんだから。でなければ、その人は清らかでなんかいられないはずだもの。愛する者のない孤独な人間は、無にはなり得ても 清らかにはなり得ないんだから」 あんなひどいことをした俺を責めることもできない瞬が、怒りに燃えた目をして神を糾弾していた。 「どんなにどんなに傷付けられても、一人で無感動に生きているよりいいでしょう。孤独でいるより傷付けられている方がずっとましだ。氷河がおかしくなったのは、その孤独を強いられたからだよ。僕がもっと早く氷河のところに行けていたら、氷河はこんなことにはならなかった。氷河は僕のために――僕のために傷付いたの。僕だって、誰かを傷付けて生きている……」 それは違う。 俺が傷付いたのは――傷付いたつもりになったのは、ただの自業自得だ。 俺が自分の強さを過信していただけのことで、それは瞬のせいじゃない。 「あなたは人間の最大の弱点を利用して、氷河を傷付けて、悦に入っているの? 自分より傷付いている者がいると思って安心したいの? でも、あなたの孤独は永遠に癒されることはないよ。あなたは、これまでに幾度も僕以外にもあなたの器を選んで人類の粛清を企ててきたって、沙織さんが言ってたけど、それらはすべて頓挫した。あなたに選ばれた者たちがあなたを拒んだように、僕もあなたの思う通りにはならない。僕はあなたと同じところに堕ちるつもりはない。もし、あなたが僕の代わりの誰かを次の犠牲者として選び、その人に近付いていっても、その人はやっぱりあなたを拒むから」 『……』 「だって、その人には、あなたの他に大切な人がいるんだもの」 瞬のこの激しさは、ハーデスにとっても意外なことだったらしい。 『余は――』 強大な力を持ち、人間に対して圧倒的に優位にいるはずの神の声は、決して弱々しいものではなかったが、俺は死の国の王の反駁に、どこか空しい虚勢を感じた。 『余は人間ではない。神だ。孤独など恐れぬ。余は現に数千年の時を一人で過ごしてきた』 「あなたを無条件に許し、愛し、受け入れてくれる誰かを夢見ることで かろうじて? 言ったでしょう。誰かを愛さない限り、あなたの孤独は終わらないよ」 『余はそなたを愛しているが』 「僕があなたを傷付けることはないと思っているから? でも、もうわかっているでしょう? 僕はあなたを傷付ける力を持っている。あなたの孤独をあげつらって、その弱さを攻撃することができる。僕にそんなことをさせたのは、でも、あなた自身だよ。あなたが僕の大切な人を傷付けるから!」 瞬のこの激情は、俺のためだというのか? だとしたら――。 「たった一人でいい。誰かを本当に愛すれば、人は――あなたは、孤独ではなくなるよ。愛し返されるかどうかなんて考えずに誰かを愛せば。その人に生きていてもらいたい。幸福になってほしい。そう思うだけで、この地上を死の世界にしたくないと願う僕の気持ちもわかるはず」 だとしたら、それは馬鹿げたことだ。 「人間は――僕たちアテナの聖闘士でさえ、本当はごく限られた数人の誰かのために戦っているの。その人のいる世界だから守りたい。他のすべての人間が汚れていたって、そんなことどうだっていいんだ。僕の大切な人には 生きて幸福になるだけの価値があるって、僕が信じているんだから」 俺は、瞬にそんなふうに言ってもらえるような、そんな価値のある男じゃない。 『そなたの、その“大切な者”がこの卑怯な男だというのか? その者は汚れている。その者は、卑劣な嘘でそなたを我がものにしようとした。そなたの愛に値しない男だ。その者は、本当はおまえを愛してなどいない』 ハーデスの方が、瞬よりよほど正確に、俺という男の価値を見抜いている。 正直、俺はそう思った。 俺は、俺の卑怯を自覚していた。 にもかかわらず、暴走する俺自身を止めることができなかった。 世界が自分の思い通りにならないことに憤り泣き叫んで、世界を変えようとする無分別な子供のように。 「清らかなものだけを求めるのは――清らかなものにだけ価値があると思うのは、間違いだよ」 瞬は、そんな俺をも許そうとするかのように そう言った。 「僕は、『清らかだから』なんて理由で人を愛したりしない――氷河を好きになったりしない」 ――と。 瞬は、どういうつもりでそんな言葉を――『好き』なんていう言葉を――口にするのか。 仲間、友人、あるいは同胞。 恋人としてではないだろう。 俺は、本当に愚かで浅ましい男だ。 そんなことを考えている場合ではないというのに、未練がましく まだそんなことを考えている――。 「僕はあなたを傷付けることができる。それでもいいのなら、僕の身体を使って馬鹿な企みを始めればいい。あなたの企みは必ず――決して成し遂げられないから。必ず僕が阻止してみせる」 瞬が、断固とした口調でその決意を告げる。 『余は――』 言いかけた言葉を途中で投げ出して――ハーデスの気配が ふいに消えてしまったのは、その時だった。 |