「だ……だって、僕、シャイナさんに片思いしてるカシオスを慰めたくて、僕も片思いしてるんだって言っちゃったんだよ! 本当はそんな人いないから、カシオスに相手はどんな人なんだって訊かれた時、氷河のイメージで片思いの相手を捏造したの。僕の好きな人は、背がすらっと高くて、綺麗で、聖闘士で、すごく優しい人だって言っちゃったんだ。今度 聖域に行ったら、その人を紹介するって、僕、カシオスと約束したんだよ……!」 もはや再起不能かと思われた氷河が、半死半生の状態から奇跡の復活を遂げた時、瞬はちょうど、紫龍たちに彼の暴挙の理由を訴えているところだった。 氷河の額に載せられていた冷却シートは瞬の気遣いだったのだろう。 既に体温と同じ温度になっていたそれを指でつまみあげ、氷河は のそのそと長椅子の上に上体を起こした。 ラウンジのテーブルの上に置かれたピンクの異様な物体が、少しぼんやりしていた氷河の意識を瞬時に覚醒させる。 「あ、氷河……!」 氷河の覚醒に気付いた瞬が、その表情を ぱっと明るく輝かせる。 だが氷河は、そんな瞬に同じように明るく笑いかけてやることはできなかった。 できるわけがない。 「お……おまえが絶賛片思い中のタコを慰めようとする気持ちはわからないでもないが、だからといって、なぜ俺が女装しなければならないんだっ! しかも、これはどう見ても――!」 氷河は、その先の言葉を口にしてしまうことができなかったのである。 テーブルの上に広げられているピンクの物体。 瞬が氷河のために用意したらしい女装用の衣装。 それは、どこから何をどう見ても、俗に“マタニティドレス”と呼ばれる代物だったのだ。 「だ……だって、聖衣を着てたら、すぐに氷河だってばれちゃうでしょ。だから、身体の線が出ないゆったりしたワンピースを着て仮面をつけてもらえば、正体もばれないだろうって思ったんだ」 「この俺に、よりにもよって、マタ……マタ……スカートを穿けというのかーっ !! 」 氷河は、どうしても“マタニティドレス”という言葉を口にすることができなかった。 氷河がやけ気味に響かせた怒声に、瞬が少しばかり意地を張ったような表情になる。 「僕だって、こんなの買うのはすごく恥ずかしかったんだから! お店の店員さんは、すごく優しそうな目をして『今 何ヶ月ですか』なんて訊いてくるし、『サイズが合いそうにないから、もっと小さいものを』って、親切にあれこれ探してくれるし――」 「それは大変だったな」 真顔で瞬に同情する素振りを見せる紫龍を、氷河はぎろりと睨みつけた。 これは、購入時の苦労がどうこうという次元の問題ではない。 「だから、なぜ俺がこんなものを着なければならないんだっ !! 」 「なに怒ってんだよー。瞬の恋人役だぜ。光栄に思えよ」 殺気立っている氷河とは対照的に、ノンキを極めた星矢の声。 「思えるかっ」 氷河はペガサスの聖闘士の言を、一喝一蹴した。 まるで自分が怒鳴りつけられでもしたかのように、瞬がしょんぼりと肩を落とす。 そんな瞬とは対照的に、氷河に直接怒鳴られた星矢の方は、水をかけられたカエルのように涼しい顔を崩さなかった。 「なんだよ。命がけの戦いを共にしてきた仲間が窮地に陥ってるんだぜ。マタニティドレスだろうがウェディングドレスだろうが、喜んで着てやるのが男の友情ってもんだろ!」 「女装させようとしている相手に、男の友情なんか求めるなーっ!」 氷河の反駁は至極尤も、実に論理的だった。 あまりの理路整然に、星矢が爆笑する。 当然のことながら、氷河は星矢と一緒に笑う気にはなれなかった。 「いや、うん、ほんと、それにしても、カシオスがあのシャイナさんに片思いとはね。度胸あるよなー。ちょっと見直しちまったぜ」 カシオスの片思いも、瞬がついてしまった嘘も、氷河の女装もすべて、星矢には他人事であるらしい。 笑いたいだけ笑い、氷河をからかいたいだけからかうと、それで気が済んだのか、星矢はラウンジの肘掛け椅子に背中から飛び込んでいった。 「……」 仲間の楽しげな様子に同調できずにいたのは、氷河だけではなかった。 瞬は、星矢に笑いを提供するために氷河に女装を依頼したのではない。 これは一人の心優しい人との約束を守るために必要な、真面目で深刻で真摯な願い事なのだ。 それを、星矢に笑う権利があるだろうか。 元はと言えば、カシオスの片思いも、瞬がついてしまった嘘も、氷河の女装も、星矢がシャイナの思いに応えなかったことに端を発しているというのに。 すべての元凶である星矢が他人事の顔をしていることに、瞬は苛立ちに似た感情を覚えることになった。 「星矢には、好きな人はいないの?」 「好きな人って何だよ?」 なぜ瞬は急にそんなことを訊いてくるのかというように、星矢が首をかしげ反問してくる。 まさかそんなことを尋ね返されることがあろうとは思ってもいなかった瞬は、一瞬 声を詰まらせた。 「だから……いつまでも一緒にいたいって思う人だよ」 「そんなら、星華姉さん!」 即答だった。 元気一杯かつ天真爛漫かつ天衣無縫な、実に見事な即答。 あまりの潔さに 瞬が彼への怒りを忘れるほど、星矢の答えには迷いがなかった。 カシオスの恋のためには、ここで星矢から『シャイナさん!』という返事が返ってこないのは、むしろ都合のよいことである。 だが、たとえ星矢の心がシャイナに向いていなかったとしても、それでシャイナの恋に決着がつくわけではない。 まして、それでカシオスの切ない片思いが実ることになるわけではないのだ。 星矢は、シャイナの気持ちなど まるでわかっていない。 だから、愛さず、殺さず、放っておくという残酷なことが、星矢にはできてしまうのだ。 シャイナの恋を終わらせてやろうという親切心も思い遣りも、星矢の内には存在しない。 彼の胸の中にあるのは、何をおいても、姉への思慕、そして、せいぜい男の友情くらいのもの。 恋という言葉の概念すら、まともに把握しているかどうか怪しいものだった。 「星矢って、腹が立つくらい鈍感だよね!」 「なんだよー。鈍感って」 「言葉通りだよ」 こんな鈍感な男は、さっさと見限るに限る。 こんな星矢に恋などしても、シャイナの思いが報われることはない。 今度聖域に行った時には、星矢の鈍感振りをシャイナに告げ口し、彼女のすぐ側に、誰よりも優しく彼女を見詰めている人がいることを知らせてやるのだ――。 鈍感を極めている仲間の姿を見て、瞬はその決意を新たにした。 そうして、カシオスには、スカートを穿いた氷河を紹介し、彼の助言に従って告白したら思いが叶ったと言って、彼に勇気を奮い起こさせる。 カシオスは瞬の成功に触発され、シャイナに積年の思いを伝える。 それですべてが丸く収まるはずだった。 カシオスの恋は実り、シャイナは希望のない恋に見切りをつけて、新しい幸福な恋を手に入れる。 幸福な二人の姿を見れば、叶わぬ恋に傷付くことしかできずにいる自分の心も慰められるだろう――。 瞬は、そう思っていたのだ。 その全人類幸福化計画の入り口で、よもや ここまで激しい氷河の拒絶に出会うことになろうとは、瞬は考えてもいなかったのである。 その上、瞬の計画に難色を示してきたのは氷河だけではなかった。 それまで瞬の話に ほとんど口を挟まずにいた紫龍までもが、 「氷河が女装をするかしないかは氷河自身の判断に任せるとしてもだ。瞬、いずれにしても、おまえは近いうちに聖域に行って、カシオスに本当のことを知らせて謝った方がいい。氷河がうまく女に化けおおせるとは思えないし、もしおまえの嘘がばれたら、カシオスがどんな気持ちになると思う? 嘘で慰められても、カシオスは喜ばない。むしろ奴はおまえの嘘に傷付くことになるかもしれないぞ」 と言ってきたのである。 「それは……」 紫龍の言うことは理に適っているだけでなく、人間の誠意のあり方を正しく示すものだった。 だから、瞬は結局彼の言に頷くしかなかったのである。 嘘ではない――瞬の片思いは決して嘘ではなかったのだが、本当のことを仲間やカシオスに打ち明ける勇気は、瞬には持ち得ないものだったから。 |