「どうしてシャイナさんはカシオスを好きじゃないの……」
絶対に叶わないと思っていた恋が実れば、もっと幸福感に浸れるものと思っていた。
だが、現実はそうはならなかった。
氷河の腕と胸の中で、瞬は今、ひどく切なかった。

「星矢より可愛いと思っているし、星矢より信頼しているとも言っていただろう」
「そういう意味じゃなくて……」
「好意を抱いた相手に同じように好意を返してもらえることは まれだと、奴自身が言っていたじゃないか。おまえも、ジュネに、あの女がおまえに向けているのと同じ好意を返してやらずにいる」
「……」
氷河は、妙にジュネに固執している。
瞬は、氷河のその思い込み・・・・が奇異に感じられてならなかった。
そんなことが、あるはずがないのだ。

「もしジュネさんが――万一、氷河の言うように僕を好きでいてくれるんだとしても、ジュネさんは綺麗で優しくて強くて素晴らしい人だから、僕なんかより ふさわしい人が他にいくらでもいるよ」
「人に愛されている奴はみんな、そんな残酷なことを平気で言う」
「残酷……? 僕が……?」
人にそういう評価を下されるのは、生まれて初めてのことである。
少なからず、瞬は衝撃を受けた。

人に愛されるということでは人後に落ちない氷河は、ではどうなのか、と瞬は思ったのである。
仲間としての贔屓目、自分が恋をしてしまった相手という贔屓目を抜きにして見ても、氷河は人に愛される才能に恵まれている男である。
ほんの少し嫉妬めいた気持ちで、瞬は彼を疑った。
瞬のささやかな反発心に気付いたのか、氷河は、瞬を抱きしめていた腕をゆっくりと解いた。
途端に不安に囚われてしまった瞬の顔を、あの青い瞳で、氷河が覗き込んでくる。

「その点、俺は誠実で正直だ。女に言い寄られるたび、『俺には好きながいる』とはっきり答えてきた」
「……」
「皆、いやそうな顔をして『さようなら』と言ってくれる」
氷河に知らされた今更ながらの事実に、瞬はあっけにとられてしまったのである。
その言動自体もさることながら、氷河が自分のそんな振舞いを、誠意に満ちた行為だと信じているらしいことに。

「そ……そんなことを言ってしまう氷河より、僕の方が残酷なの」
「自覚した方がいい」
氷河は、至極あっさりと瞬に頷いた。
瞬が戸惑いを覚えるほど、一瞬の逡巡もなく。
そして、瞬の頬に右の手の平で触れてくる。

「人間が感じる罪悪感の中で最も つらく厳しい罪悪感は、愛せない罪悪感だ」
「愛せない罪悪感……?」
「ジュネの心を傷付けているんだから、おまえは絶対に幸福にならなければならない」
瞬には冷酷極まりなく感じられる言葉を言い募る氷河の手は温かい。
氷河の手が、なぜこれほど温かいのか、瞬は不思議でならなかった。

「幸福に? 逆じゃないの?」
愛しても愛し返してくれない人――その人が幸福でいるよりは不幸でいた方が、愛を返してもらえない側の人間の心は慰められるのではないか――。
瞬自身はそうではなかったが――たとえ愛し返してもらえなくても、瞬は 氷河には幸福でいてほしかったが――そう願わない人間も、この世にはいくらでもいるだろう。
もしジュネが本当に自分を好きでいてくれるのだとしたら、彼女の前で氷河と幸福そうにしていることなど、瞬にはとてもできそうになかった。
自分のせいで不幸なのかもしれない人に、そんなふうな、まるで幸福を見せつけるようなことができるわけがない。
氷河は、しかし、首を横に振った。

「たとえ自分の思いが報われなくても おまえには幸福でいてほしいと願うような相手でないのなら、おまえは、そんな奴に罪悪感を覚える必要はない」
「……」
氷河の冷酷な言葉が、瞬の胸を打つ。
氷河の手が温かい訳が、瞬には初めてわかったような気がした。
残酷で冷酷な氷河は、瞬を好きでいる者の人間性――ジュネの人間性――を、瞬よりも信じ、かつ敬っているのだ。

氷河の信頼と尊敬は間違っていないと思う。
氷河が信じている通りに――ジュネは望んでくれるだろう。
アンドロメダ島で彼女に庇われてばかりいた子供が幸福になることを。
それがどういう形のものであれ、瞬が『僕は今 幸福だ』と言えば、彼女はきっと、瞬の幸福を喜び、微笑んでくれるに違いなかった。
たとえ、彼女自身がその幸福に関わることができなくても。
たとえ心の底では、自分こそがその幸福に関わりたいと望んでいるのだとしても、ジュネはきっと。


「僕……」
人は皆、どうしてこうも優しく強いのか。
そして、どうして、これほどまでに悲しいのだろう。
憎まれていた方が、人はずっと楽でいられるのではないかと、瞬は思ったのである。
その方が ずっとましだと。
その方が、はるかに苦しくないと。

それでも人は幸福にならなければならないと、氷河は言う。
これが、愛せないことの罪悪感というものなのであれば、確かに、この苦しさ以上につらい思いはないだろうと、瞬は認めた――認めざるを得なかった。

瞬は――叶うことはないと信じていた恋が実って、幸福そのものであるはずの瞬は――きつく唇を噛みしめたのである。
氷河の温かい腕が、そんな瞬を再び抱きしめてくる。
その腕と胸の中で、瞬は目を閉じた。

「カシオスの恋は――シャイナさんの心は変わらないの」
「それは俺にはわからないが――シャイナは、カシオスに負けず劣らず一途そうだな」
「うん……」
氷河の見解には、瞬も同感だった。
あの師弟は、そんなところもよく似ている。

「カシオスは、シャイナのために死ねたら本望と本気で考えていそうだ。奴は、恋に殉じる場面と機会を求めているのかもしれない」
「氷河……氷河……」
そんな悲しく恐ろしい話はやめてほしかった。
それが単なる予測や推察ではなく、現実のものになってしまいそうで、瞬は恐かった。

瞬の身体の震えを感じ取ったらしい。
氷河は不吉な話を、そこで打ち切った。
代わりに彼が語り出したのは、もっと厳しい現実の話だった。
「俺にわかることは、おまえの片思いだった恋が実ったと報告すれば、報われない自分の恋のことなどでひがんだりせず、奴が心からおまえの恋の成就を喜んでくれるということだけだ」
「うん。きっと……」
「そして、おまえは、心から嬉しそうに奴の祝福を受け取らなければならない」
「……」

そうすることが、カシオスの友情と優しさに応える唯一の方法なのだ。
自分の幸福と幸運に引け目を感じ、カシオスの前で卑屈に振舞うことは、彼を侮辱することになる。
愛せない罪悪感と 幸福でいることの負い目――愛と幸福を手に入れてしまった人間は、それらのものに耐える義務がある――。

人が幸福であるということは、なぜこんなにも悲しいことなのか。
人は皆 優しいのに、なぜその心はすれ違ってしまうのか。
瞬は悲しくてならなかった。
とても悲しくて、涙を抑えることができない。

悲しむ瞬の心を、氷河が抱きしめてくれた。
この温かさが幸福というものなのだとしたら、幸福というものは何と苦しいものだろう。
氷河の胸の中で、瞬は切なく思ったのである。






Fin.






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