「この俺を存在しないものにしようというのか!」
氷河の肩に頭を傾け 微笑さえ浮かべて目を閉じてしまった瞬の姿に、こめかみを引きつらせて、死を司る神は毒づいた。
いつのまにやってきていたのか、彼の兄弟である眠りの神が、怒り心頭に発している死の神をたしなめる。
「そろそろ お遊びはやめろ、タナトス。ハーデス様のお気に障ったらどうするのだ」

死の神が銀の色を帯びているように、眠りの神は金の色を帯びていた。
二人は氷河の部屋ではなく花園の中にいる。
「ハーデス様のお目に適った者がどれほどのものかと興味を持つことも、俺には許されないのか」
「いずれ、いやでも相まみえる相手ではないか」
激している死の神とは対照的に、眠りの神はどこまでも落ち着いていて――その声は冷ややかでさえあった。
その冷ややかな声で、眠りの神が死の神に尋ねる。

「おまえは本当に神の力を使って、アンドロメダを生き延びさせてやったのか」
死を司る神はもしかしたら、何にでもどんなことにでも腹を立てたい気分だったのかもしれない。
彼は眠りの神に対して、何を馬鹿なことを訊いてくるのかというような顔を向け、そして、吐き出すように言った。
「そんな必要はなかった。アンドロメダは、あの細い身体の内に恐るべき生命力を隠し持っていた。奴はこれからも生き延び続けるだろう。虫ケラほどしぶとい」

死の神の答えは、眠りの神の予想通りのものだったのだろう。
彼はゆっくりと頷いた。
「たとえハーデス様の魂の器になるものとはいえ、おまえが人間の命を守ろうとするなど ありえないことと思っていたのだが、やはりおまえにそんな殊勝な心掛けはなかったか」
得心したように酷薄な笑みを浮かべる眠りの神に、死の神は忌々しげな視線を投げた。
「生きることの恐怖を教え、死が いかに甘美なものであるのかを教えてやろうと思ったんだが……どんな理屈をこじつけても生きたがるのが人間というもののようだな」

「一人でないなら――愛する者がいるなら、なおさらだろう」
そう告げる金色の神の声は、だが、“愛”などというものの存在を全く信じていない者のそれのようだった。
あるいは、ありもしないものを信奉している人間という存在をあざけっているようだった。
「自分には死ぬ権利があるはずだなどと 馬鹿げたことを言い張り、その実、生きたい生きたいと――つまりは、愛されたい愛されたいと叫んでいるのが人間だ。愛など――そんなものは、少なくとも醜悪極まりない人間の世界には存在し得ないものだろうに」

超然と、そして冷酷に言い募る眠りの神に、死を司る神は微かに眉をひそめたのである。
死の神はもちろん、眠りの神以上に人間というものを忌み嫌っていた。蔑んでもいた。
だが、瞬を見詰めているうちに、彼は、あの虫ケラたちは神々は持っていない何らかの力を、その身に備えていることを感じるようにはなっていたのだ。
その力が、人間が『愛』と呼ぶものなのかもしれないとも、彼は思っていた。
その『愛』が、人間たちが語るように美しく価値あるものと思うことはできなかったが。
いずれにしても、不純なもののない清冽な神の世界のみを見詰め、人間界に関わることを避けている眠りの神には、あの見苦しいほどに強い力を実感する機会はないのだ。

「知っているか、人間の世界には、『エロスとタナトス』という二元論があるそうだ」
その眠りの神が、思いがけなく、人間界に関する知識を披露してみせる。
少々意外の感を抱きつつ、死の神は、彼の告げた言葉を反復した。
「エロスと俺?」
「生の本能であるエロスと、死の本能であるタナトスが、人間の命を成り立たせているという考え方だな。生きたいという願いと死にたいという願いの間で揺れ動きながら、人間は“生きている”んだ」
「ふん」

人はいつかは死んでしまうのに――人間にとって唯一確かなものは死だけだというのに、人間というものは詰まらぬことで動揺し迷いながら生きているものである。
悩み迷わなくても死は確実に手に入るのだから、生きることだけを考えていればいいのに、人間はそれをしない。
銀色の神は、人間たちの無意味な足掻きを鼻で笑い、そして忘れた。
死を知らぬ神には そんなことより――虫ケラの生死などより――己れのプライドの方が はるかに重要なものだったのだ。

「俺を妄想の産物にしてしまった――。神であるこの俺を。まったく、呆れた傲慢、許し難い思い上がりだ」
「そのような益にならぬ憤りは忘れた方が利口だぞ。あの者の肉体にハーデス様の魂が宿った時、我等はあの者の前に跪かなければならぬのだからな」
死の神の憤りを、眠りの神は、それこそ詰まらなそうな目をして無視してみせた。

「生に貪欲な人間と、死を知らぬ神の戦いか。さて、どうなるものやら。あの見苦しいほどの生き汚さに、私たちは勝てるのか――ハーデス様は勝てるのか」
「面白いことを言う。ウジ虫相手に俺たちが敗れることがあると思うのか」
「まさか。だが……」
興味深いではないかと、金色の神は独り言のように呟いた。
そんなことには全く興味を抱いていないような声と表情で。

「ひとまず帰ろう」
「帰るも何も――」
死を司る神の実体は、今はエリシオンにあった。
彼は、ウジ虫で満ちている人間界に 実在したことは一度もなかった。
彼はいつも、この至福の花園から、醜悪な人間界で生きることに苦しむ瞬を見詰めていたのである。
「おまえのニンフたちが、『最近のタナトス様は、何が嬉しいのか心を人間界に飛ばしてばかりいる』と不満そうにしていたぞ」
「昆虫採集が趣味になったんだ」
「悪趣味な」

眠りの神が、心底 嫌そうな顔をする。
取るに足りない存在と侮りながら、人間に対して妙に向きになっている死の神を、人間に対するほどではないにしろ、眠りの神は見下していた。
「今は――あの者たちに関わるのは、もうやめておけ。あの者たちがハーデス様の支配する冥界にやってくるのは、ずっと先のことだ。無論、彼等の前に立ちはだかる すべての敵に打ち勝ち、彼等が生き延びることができたとしての話だが」
「生き延びるだろうな。あのウジ虫共は。そして、俺の標本箱に飾られることになる」
死を司る神は、確信に満ちた口調で楽しそうに そう言った。

たとえ うるさく騒ぎ立てる羽虫を叩き落すためにでも、人間などに関わりたくなかった眠りの神は、そんなことを楽しげに語る死の神に危ういものを感じたのである。
アンドロメダ座の聖闘士にかかずらっているうちに、仮にも神である者が、人間の価値――とまではいかなくとも、人間の存在を認めるようになってしまっている。
それを『愛』と呼ぶのか、あるいは『生に執着する力』と呼ぶべきなのかはわからないが、ともあれ 人間が持つ力を侮ることは危険だと、眠りの神は自身に言い聞かせたのだった。

かつて一度も 生きた血肉を持った人間を迎え入れたことのない至福の苑は、今はまだ 愛も死も知らぬ神の意思だけに覆われていた。






Fin.






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