一週間後には必ず兄に会える。
生まれ育った城や亡き母の思い出、優しい侍女たち、平和で穏やかな時間――それらすべてを失い、孤独をしか持たなくなった瞬を、その希望だけが生かし続けた。

瞬は、兄に言われたように、城を出ると顔や衣服を泥で汚し、都を離れて、兄と再会の約束をしたシュルティスの荘園に向かった。
そこは、都とは大きな森で隔てられた王家直轄の領地で、狩猟シーズン以外にはほとんど人の出入りのないひっそりとした場所である。

瞬の兄がその荘園の狩猟小屋を再会の場所に指定したのは、彼の機転だったのだろう。
そこには狩りのための武器や、休憩用の簡易な寝台、狩猟の際に身に着ける飾りの少ない衣服、狩りの勢子として雇った子供たちに与えるための小金等が置かれていた。
金貨を渡すと驚かれるので、銅貨ばかりを詰めた大箱が地下にしまわれていたのだ。
その銅貨を使って、瞬は、近隣の農家から、兄との約束の時まで生き延びるのに必要な食料を手に入れることができた。

約束の時までに、二度ほど瞬は都に戻り、そこで噂を幾つか聞くことができた。
王宮の外までを荒らすつもりがないらしいヒュペルボレオイ軍は、エティオピアの都の市中にまでは兵を割かなかったので、瞬はそこでヒュペルボレオイの兵に出会うこともなかった。

ヒュペルボレオイの軍は、エティオピアの民に対する害意は全くなかったようで、王宮内は破壊し尽くしたというのに、その外の人間や建物には危害一つ加えなかったらしい。
百人ほどの兵が王宮内探索のために残ったが、他の兵は早々に自国に帰っていったということだった。
ヒュペルボレオイ軍に捕らえられたのは、エティオピア国王である瞬の兄、亡き父の弟――瞬の叔父とその家族、大伯母の息子とその家族。
王家の血を引く男子は、瞬以外すべて、ヒュペルボレオイ軍の手に落ちたらしい。
ただし、婚姻や養子縁組等で王家の一員として迎え入れられた男子、及び女子は、捕えられてもすぐに解放されたという話だった。
どれほど微かでもエティオピア王家の血を引く男子は全員、幼い子供も例外なく、ヒュペルボレオイに連行され、そこで処刑された――という噂が市中には蔓延していた。
まるでエティオピアの国というより、エティオピア王家に恨みでもあったかのような仕業だと、都の住人たちは囁いていたのである。

(処刑された――?)
その噂を最初に聞いた時には衝撃を受けたが、それでも、噂は噂にすぎないと、瞬は自分に言い聞かせることができた。
一週間後に会おうと、兄は瞬に言ったのだ。
そして、どんな小さなことでも、瞬と交わした約束を兄が破ったことはこれまでに ただの一度もなかった。

瞬を傷付けたのは、だから、そんな噂よりも、むしろ瞬の目の前にある現実の方だったのである。
ヒュペルボレオイの王は、あまりにもたちの悪い侵略者だった。
彼はエティオピア王家に対しては冷酷の限りを尽くしたというのに、エティオピア国民には寛大で、ヒュペルボレオイの軍隊は侵略に付き物の略奪狼藉の類を一切行なわなかった。
それどころか、ヒュペルボレオイ王の名で、騒ぎを起こしたことを詫びる高札を都のあちこちに立て、これまで通りの暮らしを続けるようにという布告を出し、エティオピア国民への気遣いを示した。
これでは、エティオピア国民が侵略者を憎むこともできない。

民の目から見れば、国の統治者が変わっただけで、彼等の日々の暮らしには何の変化も起きていないのだ。
最初のうちは何かが起きるに違いないと怯えていた民たちも、ヒュペルボレオイ軍が帰国すると 徐々に日常を取り戻していった――それは見事なほどに鮮やかに。
自分たちの国の王家を滅ぼされたことに憤りは感じても、生活が何も変わらないのでは具体的な不満の生じようがない。
よくないことが起こるのではないかという不安が消えると、彼等は、まるでこの国には何も起きていなかったかのような顔で、永遠に滅び去ってしまったのかもしれないエティオピア王家のことを思い出話として語り始めていた。
彼等にしてみれば、この事態は、一つの家にたまたま不幸が降りかかっただけ、その家がたまたま王家だっただけ――のことなのかもしれなかった。
その事実が、瞬を傷付けたのである。

母が亡くなり、父が亡くなり、若くして王位に就いた兄は、瞬にとって父であり、唯一の家族だった。
他に親族と言える者も 数は少ないがいることはいたし、彼等は皆 瞬を可愛がってくれたが、瞬がいたずらをした時、間違いを犯した時、瞬を叱ってくれるのは兄ひとりだけだった。
だから、瞬は、自分の“家族”は兄だけだと思っていたのである。
王位に就いた兄は、自国の民のため、家臣のために、自分を律する良い王だったと思う。
どちらかといえば好戦的で攻撃的な彼の性分を抑えていたのは、彼が自身に課せられた責任を自覚していたからだったろう。
その兄を、彼等の国王を、彼の愛した国民は、あまりにも簡単に、そして無情にも忘れようとしている――。

こんな不実が許されていいのかと、瞬は、自国の民に対して憎悪に似た思いを抱くことになったのである。
そして、こんな不正無法が許されていいはずがないと、瞬はヒュペルボレオイの王を憎んだ。
罪を犯していない者を殺し、王位を簒奪しておきながら、誰もヒュペルボレオイ王の罪を咎めず、また罰せられることもない現実が、瞬には許せなかった。

瞬は、これまで、人間を醜悪なものと思ったことがなかった。
悪意、冷酷、狡猾、卑劣を感じさせる人間に出会ったことがなかった。
高潔で誠実な人間と優しい人間たちにだけ接し、愛情と花にだけ囲まれて幸福に生きてきた。
邪悪も無情も醜悪も知ることなく。
だが、だからこそ、この理不尽が許せない。
兄を忘れていく民が、瞬は許せなかったのである。

早く―― 一刻も早く、瞬は兄に会いたかった。
そうして、兄に『民を憎んではならない』と言ってほしかった。
兄がそう言うのなら、不実な民を許すこともできる。
兄が生きてさえいれば、卑劣なヒュペルボレオイの王を許すこともできる。
瞬は、人を憎みたくなかったのだ。

約束のその日、シュルティスの荘園の狩猟小屋で、日が暮れるまで、瞬は兄の訪れを待った。
兄は、その日、約束の場所にやってこなかった。






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