青い瞳が瞬を見詰めていた。 それが誰のものなのか――神のものなのか、天使のものなのか――を確かめようとして初めて、瞬は、人は 瞼を開けるのにも力を必要とするのだということを知ったのである。 (綺麗な目……) 周囲がぼんやりと白く霞んで見える。 ここは天上の国に違いないと瞬が確信した途端、 「なぜ あんなところにいた。エティオピアの者だな?」 妙に現実的な声が、瞬の上に降ってきた。 「あ……」 瞬は、そして、軽い失望に襲われたのである。 天上にいる神や天使が人間に尋ねるのは、生前に犯した罪の有無であって、その人間の生国などではないだろう。 ここは天上にある国ではなく、この青い瞳の持ち主も天上の国の住人ではない。 瞬の落胆は、まもなく緊張に変わった。 その緊張は、否応なく瞬の目を開かせることになった。 瞬に その生国を尋ねてきたのは、青い瞳と金色の髪を持った若い男だった。 光そのものでできているような金髪は 北の人間特有のもの。 瞬は、自分がヒュペルボレオイの人間に命を救われた――あるいは、命を拾われた――ことを知ったのである。 おそらく貴族――と瞬に判断させたものは、彼が身につけている刺繍の施された上着と、彼の背後に見える部屋の天井の高さだった。 労働者は装飾の多い服を身につけないこと、自分で家を掃除しなければならない庶民の住居の天井は あまり高くないこと――を、以前 瞬は商家出身の侍女に教えてもらったことがあったのである。 彼が身に着けている上着は、ささやかな装飾はあったが華美ではない。 部屋の天井は高いが、そこに 壮麗な天井画が描かれているわけでもない。 ヒュペルボレオイの国民の経済状態がエティオピアに比してどれほどのものなのかは詳しくはなかったが、彼はおそらく中流の貴族なのだろうと、瞬は察した。 金糸銀糸の豪華な上着など身に着ける必要もないほど、瞬の命を拾ってくれた人物の容貌は豪華なもので――彼は文句のつけようがないほど美しい男性だった。 が、今は、その美貌にみとれるよりも、自分が今どこに――どんなところにいるのか――を確かめることの方が先である。 そのために、瞬は寝台の上で上体を起こそうとした。 青い瞳の男が、身体を起こそうとした瞬に手を貸してれる。 瞬は着替えさせられていて、狩猟用のシャツではなく、清潔な綿の白い夜着を着せられていた。 兄から預かった国璽や指輪を故国に置いてきたのは賢明だったと、瞬は思ったのである。 そんなものを持っていたせいで身分が知れることになっていたら、今頃 自分はこんなに心地良い寝台の上にいることはできなかったに違いない――と瞬は思った。 「この国の者ではないな? まさか足を滑らせたわけでもあるまい。なぜ河に身を投げるようなことをしたんだ」 「あ……」 彼が親切な人間であることは事実のようだが、敵国の人間は敵である。 貴族ならヒュペルボレオイの国王に忠誠を誓っているだろう。 そんな男に事実を知らせるわけにはいかない。 だが、自分に親切にしてくれた人に 嘘をつくこともしたくなかった瞬が思いついた答えは、 「ヒュペルボレオイの軍隊がエティオピアの王宮に攻め込んできた時、い……家を失ったの。か……家族も。それで、ヒュペルボレオイの人に助けてもらおうと思って この国に来たんだけど、都に入れなくて、もう僕なんか生きていても仕様がないって思って……」 ――というものだった。 青い目をした敵国の男は、瞬の真実の言葉を嘘だと思った――少なくとも真実を語ったものではないと思ったらしい。 咎めるように、彼は瞬の言葉に反駁してきた。 「そんなはずはない。エティオピア王家の者以外には危害を加えるなというヒュペルボレオイ国王の厳命が、エティオピア遠征軍の兵たちには伝わっていたはずだ。実際、今回の遠征ではヒュペルボレオイ軍に数人の負傷者が出ただけで、エティオピアの王族以外の血は一滴も流れなかったと、俺は聞いている」 『その王族の血が僕の幸福のすべてだったのに!』と、瞬は叫んでしまいそうになったのである。 そう叫ぶことができていたら、瞬の心は少しは軽くなっていただろうか。 だとしても、瞬は、自身の悲嘆を彼に訴えることはできなかった。 『死』が恐いわけではない。 瞬は、自分の身の上をヒュペルボレオイの者に知られるわけにはいかなかったのだ。 ヒュペルボレオイの王の手で処刑されることだけは、何としても避けたかった。 「ぼ……僕は、エティオピアの王宮で庭師の仕事をしていたの。家もそこにあった。ヒュペルボレオイ軍の兵たちが僕の花園にやってきて、だ……誰かを探してるみたいだったけど、花園を踏み散らして――」 「ヒュペルボレオイの兵が殺したというのは、おまえの父か? それとも母か」 「両親は もとからいないの。でも、ヒュペルボレオイの兵は、僕の花たちを殺した……」 「なに?」 ヒュペルボレオイの兵が流した兄の血を返せと叫ぶことはできなかったので――瞬は本当のことは言えなかった。 「僕のバラも百合もアネモネもフリージアもサフランも――僕、ずっと大事に大事に育ててきたのに……」 だから、そう言って、瞬は、ヒュペルボレオイ軍の兵たちの無慈悲をヒュペルボレオイの男に訴えたのである。 ヒュペルボレオイの兵が奪ったのは兄の命ばかりではない。 瞬の大切な花を踏みにじることで、彼等は、瞬の亡き母への憧憬までをも踏みにじったのだ。 瞬は、あふれてくる涙を止めることができなかったのである。 「花……が、おまえの家族だったのか?」 ヒュペルボレオイの男が、あっけにとられたような声で、瞬に尋ねてくる。 彼は、だが、すぐに済まなさそうな顔になって、低い声で呟いた。 「そうか……。この国の兵がおまえの花の命を奪ったか……」 「あ……の……」 たかが花のことでと笑い飛ばされても仕方がないと思っていた瞬は、彼が心から瞬の花の死を悼むような眼差しで敵国の非力な孤児を見詰めることに、驚かないわけにはいかなかったのである。 「それで、死のうとしたのか……?」 花のために涙を流す瞬を笑いもせずに、彼は重ねて瞬に尋ねてきた。 「……」 無言でいる瞬の頬に、彼が手をのばしてくる。 その手は、温かかった。 「絶望するのはやめることだ。おまえは こんなに若くて美しいんだから」 彼の温かい手を、瞬は、首を大きく左右に振ることで振り払ったのである。 「それが何になるの! 僕が若ければ、僕の花たちが生き返るの! 空から食べ物が降ってくるの!」 「それはないだろうが――こうして、この俺がおまえの美しさに惹かれて、住まいと食べ物を与える気になっているじゃないか」 「あなたは、僕が年老いて醜い人間だったら放っておくの!」 瞬は、ヒュペルボレオイの人間に同情などされたくなかった。 ヒュペルボレオイの国に親切な人間がいるなどとも思いたくなかった。 瞬は、彼の上に冷酷や無慈悲を見付け出したかったのである。 彼は、敵国の人間――兄の命を奪った国の人間なのだから。 だが、彼は、瞬の望みを叶えてはくれなかった。 刺々しい瞬の物言いに気を悪くした様子もなく、彼は、やわらかな眼差しを瞬に向けてきた。 「老人はいたわらなくてはならないし、心が美しければ、人の表情は自然に優しく美しくなるものだ。そう ひねくれた取り方をするな。せっかくの可愛い顔が醜く歪んでしまうぞ」 瞬に振り払われた指で、自身の眉とまなじりを吊り上げて、彼は瞬にそう言ってきたのである。 そんな顔をしているのかと、瞬は慌てて、自分の頬に両手を押し当てることになった。 青い瞳の男が、そんな瞬を見て、楽しそうに苦笑する。 「安心しろ。おまえはまだ綺麗だ。しばらく、ここにいればいい。おまえの家族を奪った償いはする」 「償うって、どうやって? あなたは僕の国を侵略したヒュペルボレオイの人でしょう!」 自分ばかりが気色ばんでいることを みっともないと思わずにはいられなかったのだが、それでも瞬は、ここで彼と共に笑うことはできなかった。 そんなことができるわけがないではないか。 兄が、もう この地上にいないというのに。 「それはその通りだが――俺はおまえを憎んでいない。おまえは俺を憎んでいるのか」 「それは……」 『憎んでいるのか』と問われれば、『憎んではいない』と答えるしかない。 瞬はただ、彼を憎みたいだけだった。 そして、『憎みたい』という気持ちだけで本当に人を憎んでしまうには あまりにも――あまりにも彼の眼差しや声音は優しく、穏やかすぎたのである。 彼の瞳には、瞬をいたわる思いがたたえられていた。 「に……憎むも何も、知らない人だし……」 瞬はそう答えることしかできなかった。 そう答えて俯くことしか。 「では、知ってくれ。手始めに――俺の名は氷河だ」 「僕は瞬……です」 問われたことに答えてしまってから、瞬は自分の迂闊に気付いたのである。 敵国の人間に、正直に本当の名を告げる必要などなかったのに――と。 「瞬」 瞬の名を聞くと、氷河は噛みしめるように その名を復唱し、それからゆっくりと瞬に頷き返した。 その時――なぜだろう――瞬は彼に偽りの名で呼ばれるのは嫌だと思ったのである。 いずれにしても一度知らせてしまった名を訂正するのは不自然極まりないこと。 瞬は、『瞬』という名を『瞬』のままにしておくしかなかった。 おそらく彼は、あの残虐行為には関わっていないのだろう。 体躯はたくましく鍛えられた人間のそれだったが、氷河の所作に堅さはない。 氷河が軍人でないのは、まず間違いのないことで、彼が瞬の命の恩人であることは、更に疑う余地のないことである。 結局、瞬は、そのままヒュペルボレオイの王宮の町の一画にある彼の家に滞在することになったのだった。 「もう一つ近くに館があって、俺は普段はそちらで暮らしている。ここは亡くなった母の実家で、管理人が一人いる以外、住んでいる者もいないから、時折見回りに来ていた。しばらくこの家を好きに使っていいぞ。大切な客人として遇することを約束する」 敵国の人間の世話にはなりたくなかったが、氷河は、家も家族も失った哀れな孤児に住まいを提供するのは、それを奪った国の人間の義務と言わんばかりの強引さで、瞬をそこに引きとめた。 そして、瞬は――実際、他に行く当てがなかったのだ。 瞬が目覚めた部屋の窓からは、ひときわ高い塔を持つ王城が見えたが、それは随分と遠いところにあるように思われた。 ヒュペルボレオイの王への復讐を生きる目的に据えたばかりだったのというのに、兄の仇がいるその場所を遠すぎる場所のままにしておきたいと、なぜか瞬は思ってしまったのである。 敵国の人間の思いがけない優しさが、憎しみを養おうとする瞬の心を挫いてしまったのかもしれなかった。 王城からも町の中心からも これほど離れたところに館を構えていることから察して、氷河はあまり身分の高い貴族ではないのだろう。 その上 軍人でもないとなれば、氷河がエティオピア侵略に関わりがあったとも思えない。 そう考えることで、瞬は、彼の館に留まる自分を納得させたのだった。 |