その日、沙織が城戸邸に帰還したのは午後9時をまわった頃だった。
西陣織の振袖を いつもの悪趣味なドレスに着替えた沙織は、帰宅するなり 城戸邸在住の青銅聖闘士たちを彼女の執務室に呼びつけて、早速彼等が設定した『今年の目標』の吟味に取りかかったのである。
まずは、一番の問題児であろう星矢から。

「星矢、『一日に5000キロカロリーのおやつを食べる』なんて、マトモな目標になっていないわ」
星矢の設定した目標は、当然のごとく却下された。
提案を却下された星矢が、これまた当然の対応だが沙織に反駁を試みる。
「なんでだよ? 沙織さんが求めてるのは、達成困難な目標だろ? 5000カロリーつったら、ポテトチップスなら10袋は食わなきゃならないカロリーなんだぜ! メガどら焼きだって7、8個は食わなきゃならないはずだ。一日だけならともかく毎日。立派に達成困難な目標だよ」
星矢の主張は、事実だけで構成されていた。
虚偽や推測はひとかけらも混じっていない。
だが、この場合 問題なのは、彼の設定した目標が、世のため人のためどころか星矢自身のためにもならない目標であるという事実だったろう。

がなりたてる星矢にちらりと一瞥をくれてから、沙織は、
「星矢の今年の目標は『一日のおやつ代を300円以内におさえる』にしましょう」
と、冷酷に言い放った。
即座に星矢が異議申し立てをする。
「そんなの無理に決まってるだろ。メガどら焼きは、1個525円なんだぞ!」

質素倹約が身についている星矢は、きっちり消費税までを考慮して、沙織の言に反論した。
しかし、星矢の深慮も、沙織には通じない。
なにしろ彼女は、
「メガどら焼きがだめなら、チョコレートケーキを食べればいいじゃないの」
という考え方をする人間だったのだ。

思いがけない駁論に虚を衝かれて声を失った星矢に、沙織はもう目を向けなかった。
デスクの上に置かれた次のお年玉袋を手に取る。
中の用紙を一読して、眉根を寄せ、沙織はおもむろに顔をあげたのである。
それは紫龍が提出したものだったらしい。
彼女は、龍座の聖闘士に、少々不審げな様子で その真意を問い質した。

「気象予報士の資格をとる――というのは、何を考えてるの? お天気お兄さんにでもなるつもり?」
「そんなつもりはありません――が、軽く気象学でもかじってみようかと。以前は五老峰でよくとれていた低木茶の出来が最近芳しくないそうなんです。むしろ熱帯・亜熱帯で生育される高木茶の方が良いものができるとか。これはどう考えても地球温暖化のせいで、もう農学の問題ではなくなってきている」

「ああ、そういうこと」
紫龍の設定した目標は、星矢のそれに比べれば はるかに良識的なものだった。
沙織は、紫龍の目標はそのまま承認した。
「農作物の作況は確かに地球規模の大問題ね。ええ、これはいい目標だと思うわ。紫龍はこれでいきましょう。次は――」
次に沙織が手に取ったのは、瞬が提出したもの。

「あらま」
お年玉袋から取り出した薄桃色の一筆箋に視線を落とすと、沙織は驚いたように目をみはり、小さな歎声を洩らした。
すぐに、その表情が考え深げなものに変化する。
瞬は、心許なげな様子で、彼の女神にお伺いをたてることになったのである。

「そういう目標はだめですか」
「いいえ。ちょっと驚いただけ。とても……とても興味深い目標ね」
「どうしても達成したい――欲しいものなんです」
「自分の殻を破って、新たな飛躍を試みようというわけね。積極性と主体性を養うにはいいかもしれないわ。瞬はこれでいいでしょう。頑張ってちょうだい」
「はい……!」
ほっと安堵したように、瞬が沙織に大きく頷く。
沙織もまた そんな瞬にやわらかな微笑を返したのである。

紫龍、瞬と続いて、すんなり設定目標が沙織に承認されていくのに、さすがの星矢も不安になったらしい。
彼は、自分の隣りに立つ瞬の腕を引いて、瞬の目標がどんなものなのかを尋ねることになった。
「自分の殻を破って積極性と主体性を養う……? 瞬の目標って『バトルの時に先制攻撃を仕掛ける』とか何かかよ?」
「ん……うん、まあ、そんな感じ」
瞬は はにかむように微笑して、その目標を仲間に知らせようとはしなかった。
仲間の水臭さに ふてくされかけた星矢の耳に、突然沙織の癇声が飛び込んできたのは、まさにその時だった。

「だめ! こんなのは絶対に駄目。断固 却下します。氷河、あなた、いったい何を考えているの!」
沙織が手にしているものは、氷河が提出した『今年の目標』の紙片。
どうやら 頓珍漢な目標を設定したのは自分だけではなかったらしいと安堵した星矢は、ぱっと瞳を輝かせた。

氷河の設定した目標は、相当常識はずれなものだったらしい。
沙織は それまで偉そうにふんぞりかえっていたプレジデントチェアーから立ち上がって、デスクの向こうに立っている氷河を叱責している。
それでも身長の関係上 沙織を見おろすことになるのは氷河の方で、彼は沙織の憤怒が理解できないと言わんばかりにふてぶてしい態度を堅持していた。

「なぜです」
「なぜ !? そんなこともわからないの? 私が求めているのは、あなたたちの新年の目標なのよ? あなたたちを成長させるもの。紫龍のように社会に認められる資格を取るとか、瞬のように、新たな可能性を模索するとか、もっと建設的な目標にしてほしいものだわ。達成にある程度の困難を伴って、できれば世のため人のためになるようなものが望ましいのよ」
「困難を伴うじゃないか」
「困難を伴う? こんな目標、あなたが楽しいだけじゃないの!」

沙織の剣幕は尋常のものではない。
白鳥座の聖闘士は己れの今年の目標をどういうものにしようとしたのか、星矢の期待と好奇心は否が応でも高まった。
そんな星矢とは対照的に、瞬は心配顔で、アテナに怒鳴りつけられている氷河を見詰めている。
無論、氷河がどれだけ ふてぶてしく振舞おうと、すべての決定権は沙織にあるのだが。

「そうね。紫龍が気象予報士なんだから、あなたは、今年中に司法書士か公認会計士の資格を取りなさい」
「聖闘士に何をさせようとしているんですか。俺は定職に就けなくて困っている職安通勤者じゃないんだ」
「あら、いやなの? なら、日商簿記1級」
「……せめてボールペン習字1級くらいにしてほしいもんだ」
氷河のそのぼやきは、沙織への反論や提案ではなく、この上なく純粋な与太だった。
実現し得ないとわかった上で口にした悪ふざけ、つまりジョークである。
しかし、沙織は、その与太を、氷河が設定した今年の目標より はるかにまともな発言とみなしたらしい。
氷河の空言を受けて、彼女は真顔で頷いた。

「それでもいいわ。じゃあ、氷河は今年中に、日ペンのボールペン習字の師範の資格を取りなさい。最適な目標ね。こんな、縦書きなのか横書きなのかもわからないような文字、いくらプリンタ印字が主流の世の中でもどうにかすべきだわ」
「へ……」
戯れ言のつもりで口にしたことを逆手に取られた格好になった氷河が、沙織の指示決定に目を向く。
沙織はもちろん、氷河に異議も質問も許さなかった。






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