「俺にできる限りの努力をする」
「安請け合いしないだけの分別はあるようだね」
氷河の、彼にしては謙虚な返答に、ジュネは満足した――少なくとも、氷河の返答は彼女の気に障るものではなかったらしい。
それまで ほぼ垂直を保っていた背中と肩をソファの背もたれに預け、彼女は改めて氷河と瞬の姿を二人一緒に その視界に入れる素振りを見せた。

「で? 瞬は、こっちに来てからも相変わらず泣き虫なのかい」
「あ、それは……」
瞬が慌てたのは、ジュネに事実を知られることを恐れたからだったろう。
瞬の顔を立てるために、氷河は、
「少し」
という、嘘とも真実とも言いかねる曖昧な答えをジュネに返した。

「……『少し』ねえ……」
ジュネの怪しむような視線を受けとめることになった瞬が、大いに居心地の悪そうな顔をする。
そして、瞬は、瞬らしく、非常にささやかな反撃を試みた。
「そんなに泣いてばかりいませんてば。ジュネさんこそ、相変わらず心配性なんだから」
「心配くらい勝手にさせておくれ。だいたい、あたしにおまえの泣き虫を心配するなっていう方が無理な話なんだ。おまえは、自分がアンドロメダ島に来て最初に泣いた時のことを憶えてるのかい? こーんな小さな」
ジュネが右手の親指と人差し指で3センチほど長さを示す。
それから彼女は、あれには呆れたと言わんばかりの口調で、
「ヤモリを見て、おまえは突然、火がついたように泣き出したんだよ!」
と言った。

氷河は思わず ぷっと吹き出してしまったのである。
影では聖闘士最強と噂されることもあるアンドロメダ座の聖闘士に、そんな過去があったなどと、いったい誰に想像ができるだろう。
「それは本当か」
「う……嘘だよ! あのヤモリは10センチはあった! それが急に肩の上に現われたんだから、誰だってびっくりするよ!」
瞬はむきになって かつての自らの失態の弁明を始めたのだが、してみると、瞬がヤモリに泣かされたというのは事実であるらしい。

「3センチだよ」
「10センチです!」
「この期に及んで往生際が悪いね。事実は素直に見詰めるもんだよ。3センチ」
「ジュネさんが何と言おうと、10センチ以上ありました!」
地上の平和と安寧を守るために命をかけて戦うアテナの聖闘士たちが、ヤモリの体長で意地を張り合っている。
氷河は、最初のうちは、実に平和な言い争いをしている二人を苦笑しながら見やっていた。
だが、彼の胸中にはやがて、ひどく苦く切ない思いが生まれてきてしまったのである。

おそらく、そんな些細なことから、生きているのがつらくなるような試練に出合った時まで――アンドロメダ島で瞬が涙を流した時にはいつもジュネが瞬を支えてやっていたのだろう。
彼女がいたからこそ、瞬はあの島で生き延びることができ、そして聖闘士になることもできたのだ。
「羨ましい……。俺もその時、おまえの側にいたかった――」
口にするつもりはなかったのだが、氷河の無念は言葉と声になって彼の胸の外に洩れてしまったらしい。

ジュネが、一瞬、微妙な――“微妙”としか表しようのない表情を浮かべる。
彼女は、だが、すぐ気を取り直したように、両の肩をそびやかしてみせた。
「ふん。で、あんたはどっちの言い分を信じるの。3センチと10センチの」
「他のことならいざ知らず、こればかりは瞬の主張を信じるわけにはいかないだろうな」
我が意を得たりとばかりに、ジュネが口許をほころばせる。
「あんた、存外ものがわかってるじゃないか」
勝ち誇ったように そう言って、ジュネは、「気に入ったよ」と、光栄至極な言葉を氷河に下賜してくれたのだった。

「いや……。ありがとう、本当に。感謝する」
もし彼女がいなかったなら、瞬は今頃どうなっていたのか。
これまでアテナの聖闘士たちが紙一重の差で勝利してきた数々の戦いは どういう結末を迎えていたのか。
そして、瞬に再会できなかった自分は、今でも この世に幸福というものがあることを知らない男のままでいたのだろうか――?

考えれば考えるほどに、ジュネに対する氷河の感謝の念は強く深くなっていった。
氷河の視線に込められたものは、だが、ジュネにとっては迷惑極まりないものだったらしい。
ジュネは、決して氷河のために瞬を守り支えてきたのではなかったのだから。
ジュネは、少しばかり悔しそうに、一瞬 視線を横に逸らした。

「その次に瞬が泣いたのはトンボを見た時だよ。トンボ!」
「だって、あれは30センチはあったもの。オバケトンボでしたよ。僕、プテラノドンが飛んでるのかと思った」
「何がプテラノドンだよ。あれはせいぜい15センチくらいのもんだったろ」
「どうしてジュネさんは、そんなふうに何でもコンパクトにしたがるんですか!」

そうして、同じ島で同じ試練に耐えてきた二人は、彼等が乗り越えてきた本当の試練や、かの島のその後のことには一切言及せず、また他愛のない言い争いを始めた。
軽快で明朗といっていいような言葉と声音に隠して、二人が共に感じ抱いている思いは、だが、その言葉通りのものではないのだろう。
その時 瞬の側にいることのできなかった自分を、これほど切なく思ったことはない。
氷河は、ジュネが羨ましくてならなかった。






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