アテナの敵を倒すことのできない自分の弱さに心を苛まれる瞬の嗚咽が収まったのは、夜明け近くなってからだった。 それまで瞬はずっと、アテナの敵(かもしれない男)と同じ車の中にいた。 「俺がアテナの聖闘士だということを確かめさせてやるから」 明けの明星もすっかり姿を消した頃、氷河はそう言って車を発進させ、その車が都内某所に着いたのは、それから2時間後。 その財力は世界有数、アジア随一と言われるグラード財団本部ビルの駐車場に、氷河は彼の車を入れた。 そして、訳がわからず戸惑っている瞬の手を引いて、いかにも要人専用といった佇まいのエレベーターに乗り込ませる。 そのエレベーターが直接通じていたのは、これまた いかにもエグゼクティブのための部屋といった印象の広い部屋だった。 最初に瞬の目に入ったのは、正面の壁に設置されている巨大なスクリーン。 そこには、瞬には見慣れた石造りの神殿が映し出されていた。 「グラード財団総帥は、毎日この時刻にこの部屋で米国からの情報と聖域の様子を確認してから、その日の仕事に取りかかるんだ」 そう告げる氷河に促されてエレベーターの箱を出た瞬は、そこで思いがけない人の姿を見ることになってしまったのである。 瞬が見慣れた裾の長いドレスではなく緋色のスーツ。 革張りのプレジデントチェアーに腰をおろして、幅3メートルはあろうかという重厚な木製の机の上に置かれたコンピュータ端末のディスプレイを、難しい顔で睨んでいる一人の女性の姿――を。 「ア……アテナ……」 「瞬? あなたが なぜここに――」 「アテナこそ、なぜ日本にいらっしゃるんです! アテナ……が、グラード財団の総帥……?」 アテナは聖域にいるのだとばかり――否、アテナは聖域を出ることがないのだと、瞬はこれまでずっと根拠もなく信じていた。 すべてを超越したように端然としたアテナの佇まいと威厳は、俗世に触れることをしないからこそ保たれているもの。 彼女の目は、せせこましい人間界の営みには向けられておらず、もちろん彼女は人間の欲望も醜悪も知らない。 女神は、その澄みきった大いなる愛で、人間そのもの、人間界のすべてを守り愛しているのだと、瞬は信じていたのである。 そのアテナがグラード財団総帥とは。 それは、どう考えても、人間の欲望を知らずに収まっていられる地位でも立場でもなかった。 あっけにとられている瞬の横で、氷河は、前置きどころか挨拶もなく、彼の用件をアテナに告げた。 瞬に対する時とは打って変わった厳しい声音で、傲然と。 「アテナ。俺はあなたに聖域と聖闘士に関する事柄の情報開示を要求します。俺は、夕べ 瞬に殺されかけた」 「えっ」 「俺がアテナの聖闘士だということを瞬が知らず、俺も瞬がアテナの聖闘士だということを知らなかったせいでだ。瞬が聖闘士だということに気付かずにいた俺も迂闊だったが、これは、元はと言えばディスクロージャーを怠った あなたこそが責任を負うべきことだろう。聖域を統べるアテナとして、あなたは重大な職務怠慢を犯している」 「職務怠慢だなんて……」 部下の思いがけない反抗に、アテナは少々慌てた様子を見せた。 グラード財団の職員ならともかく、聖闘士にそういう態度で臨まれるのは、彼女にはこれが初めての経験だったのかもしれない。 実際 瞬はこれまで ただの一度もそんなことをしたことがなかったし、女神に何かを要求したり意見を述べたりする“聖闘士”が存在することを想像したこともなかった。 聖闘士――女神に造反を企てる“聖闘士”。 氷河は、本当にアテナの聖闘士だったのだ。 瞬の胸は、安堵と歓喜がないまぜになった思いでいっぱいになった。 「先日のワルハラ宮での俺の言動を、瞬に誤解されたんだ。あなたが、最初から作戦の全貌を作戦に関わるメンバー全員に知らせていたら、こんなことにはならなかったはずだ」 「で……でも、あの作戦は――。瞬が氷河を味方だと知っていたら、瞬が敵の前でそういう素振りを見せて、氷河の素性が敵方にばれてしまっていたかもしれないでしょう。私は、作戦の遂行のために万全を期しただけよ」 「その万全のせいで、瞬は俺をアテナの敵だと思い込んでしまったんだ。瞬は俺との無理心中を図ったんだぞ。大した万全だ!」 「無理心中……って、まさか、あなたたち――」 「俺と瞬は1年前から一緒に暮らしていた」 「まあ……!」 アテナにまじまじと見詰められ、瞬は顔から火が出るのではないかと思うほどの羞恥に見舞われてしまったのである。 アテナが、聖域や聖闘士、彼女自身の個人情報を秘しているように、瞬も自身のプライベートを彼女に語ったことは一度もなかった。 『好きな人ができました』などという報告を受けても、アテナはそれがどういう意味なのかすら理解できないに違いないと、瞬は勝手に思い込んでいたのだ。 しかし、今 瞬の目の前にいる女性は、『一緒に暮らしている』の意味も 「でも……ですから、私はね」 とてもアテナの顔をまともに見ることができなくて 顔を伏せてしまった瞬に微かな苦笑を投げてから、アテナは再び氷河の上に視線を戻した。 「私は、私の聖闘士たちに、戦いがすべての人間になってほしくないと考えたからこそ、あえて あなたたちが聖闘士であることを、ことさら公言せずにやってきたのよ。普通の人間が営む社会の中で、普通の人間と同じ生活をすることで、自分が守っているものたちがどういうものなのかを身をもって知ってほしかったし、それこそ、恋だって、結婚だって、同棲だって自由にしてほしかったから。悪いことをしているわけでもないのに、スーパーマンやスパイダーマンが自分の正体を社会に喧伝せずにいるのは なぜだと思うの。自分と自分の周囲の人間の身の危険を減らすためもあるでしょうけど、何よりもまず 恋をするためだとは思わなくて?」 アテナの主張がどういう理屈と価値観でできているのかが、瞬にはよくわからなかった。 実はアテナは、いつもそんな俗っぽいことを考えていたのだろうか。 彼女が追い求めているのは、罪も汚れもない清浄なる世界で、人類愛を信じ実践する人間たちの姿――ではなかったのだろうか。 改めて考えてみれば、それも瞬が一人で勝手に決めつけていたことにすぎなかったが、それでも瞬は、アテナの言に軽い目眩いを覚えないわけにはいかなかった。 恋も同棲も自由にしろ――とは! 「聖闘士が社会に対して正体を秘していることと、聖闘士同士が 自分の同僚を知らないことは、全く次元の違う問題だ。聖闘士同士は、互いに互いの力を把握し合い、協力して事に臨んだ方がいいに決まっている。俺の要求を容れてもらえないのなら、アテナ、俺は聖闘士の労働組合を設立します」 「氷河…… !? 」 聖闘士の労働組合――その突拍子のない発想に驚いたのは、アテナよりも瞬の方だった。 もちろん氷河のその言葉は、アテナの上にも かなりの驚愕を運んできたようだったが。 女神アテナという グラード財団総帥でもある彼女にとって、労働組合なる組織はなかなかの脅威であるらしかった。 なにしろ 労組が力を持ちすぎたせいで企業運営システムが破綻・崩壊するという事象も、この世界には絶無のものではないのだ。 「わ……わかりました。聖闘士間での情報開示の件は、こちらでも前向きに善処します。もちろん、情報開示は、そうすることに同意した者たちだけに限られることになるとは思うけど――」 「その『前向きに善処します』が、どこぞの国の政治家の『善処』と同じレベルのことだったら、俺と瞬はストライキも辞さないからな」 「えっ、僕も?」 びっくりして瞳を見開いた瞬に、氷河が黙っていろと目で叱咤してくる。 瞬は、身体を縮こまらせた。 「わかりました」 がっくりと肩を落としたアテナが、いかにも しぶしぶといった そうしてから、彼女は、広い机の上に両肘をついて、 「ほんと。一般人と隔離しておいた方が、余計な知恵がつかなくてよかったかもしれないわ」 とぼやいたのだった。 要求を 「その点に関しては、俺もアテナの高配に大いに感謝している。おかげで、俺はただの男として瞬と出会うことができた」 「ええ、たっぷり感謝してちょうだい。瞬、あなたは氷河が聖闘士だということを知らずに、彼と一緒に暮らし始めたの? こんな、他人に自分の要求を通すことばかりが得意な我儘男相手に、よく身体がもつわね。大丈夫なの?」 「え……」 まさかアテナにそんなことを聞かれることがあろうとは。 「あ……あの……はい……」 瞬は真っ赤になって俯くことしかできなかったのである。 「それにしても……そんなこともあるのねえ……」 アテナに、しみじみとした様子で呟かれた時、瞬は本気で、人間は恥ずかしさで死ぬことができるのではないかと思ったのだった。 |