「いったい、私の技をどうやって……」
聖域に舞い戻ってきた聖闘士でない者の姿に驚き呆れる黄金聖闘士に、氷河は得意げに、
「あの時、俺は手の中に短剣の刃を握りしめていたんだ。その痛みで自分を保ち続けた」
と答えた。
氷河の聖域での記憶を奪ったつもりでいた男は、だが、そんな答えでは合点がいかなかったらしい。
「そんな痛みごときが何の役に立つ。聖闘士でもなければ、あの技に抵抗することなどできるわけが――」
疑念を提示した者が、自分でその答えに行き着く。
つまり、そういうことだった――のだ。

「俺は、欲しいものは両方手に入れるんだ」
瞬と共に生きることと、母の幸福。
その二つを確かに手中に収めている聖闘士が、彼の師に、にっと、嫌味たらしい笑みを向ける。
「呆れた奴だ。あんなに可愛らしい子だったのに、すっかり ふてぶてしくなりおって」
彼は嘆かわしげに首を大きく振り、だが、氷河に聖域からの退去を命じることはしなかった。
そうなることを、瞬は何よりも恐れていたのだが、どうやらそれは杞憂にすぎなかったらしい。
彼はもう氷河から記憶を奪うことはできないのだから、それは最初から心配する必要のないことではあったのだが。

「私の技を受けた瞬間に、君を忘れないために、氷河は聖闘士たるにふさわしい力を身につけたんだろうな」
氷河に聖域からの退去を命じる代わりに、彼は、氷河の横に心配そうに立っていた瞬にそう言ってくれた。
彼としては、それは、『だから自分は決して聖域の掟を破ったわけではない』という主張を兼ねた発言だったのだろうが、何よりも安堵の思いに支配されていた瞬は、彼の意図には気付かなかった。
彼の言葉の別の部分に、瞬の胸が不謹慎にも ときめく。

「僕を忘れないために――?」
「まあ、そういう聖闘士が一人くらいいてもいいだろう。愛する者だけを守りたい聖闘士。氷河は、この地上を守ろうとする君を守ろうとするだろう。それは、とりも直さず、この世界を守るということだ。案外、それこそが最も正しい人類愛のあり方なのかもしれない」
心底からそういう聖闘士のあり方を歓迎しているようではなかったが、彼はそう言って、二人をアテナ神殿の内に招き入れた。


聖闘士でなければ足を踏み入れることの許されないアテナ神殿。
現世にアテナは存在していないというのに、そこはひどく優しく温かい小宇宙で満ちてた、心安らぐ静謐の空間だった。
「平和な時代に生を受けた聖闘士の役目は、この聖域と世界を、次の世代の聖闘士に無事に引き継ぐことだ」
と、彼は、聖闘士になった二人に告げた。
「氷河の母上が氷河をこの世界に残してくれたように」
と。
二人の聖闘士は、決意と覚悟と幸福感に満ちて、彼の言葉に頷いたのである。


「でも、たくさんの仲間がいる時代もいいよね」
瞬がそんな軽口を叩けるようになったのは、『私は気の利く男なのだ』と言って、二人の聖闘士の誕生を見届けた男がいずこともなく姿を消して しばらく経ってからのことだった。
そして、氷河の瞳が、聖闘士としての決意より、恋する人間の熱っぽさをたたえて自分を見詰めていることに気付いたから。

瞬は氷河の視線が気恥ずかしく、また、その視線を受けていることが気まずくもあったのである。
『一人でも大丈夫』と大言壮語しておきながら、一人ではまともに立っていることもできない為体ていたらくをさらし、氷河が自分の側に戻ってくるなり、すっかり元気を取り戻してしまった自分が。
瞬の感じている気まずさになど、氷河は気付いた素振りも見せなかったが。

「駄目だ。そんな戦いばかりの時代、おまえは泣きっぱなしになる。それに――」
氷河が、瞬の気まずさになど気付くはずもなかったのである。
彼は聖闘士になれたことより、瞬の許に戻ってこれたことの方に感激し、安堵し、歓喜していたのだから。
「俺はおまえがいればいい」
「氷河。聖闘士はすべての人のために――」

氷河が側にいるといないとでは生きる意欲の強さからして違ってしまっている自分に、そんなことを言う資格がないことはわかっていたのだが、立場上、瞬は、すっかり恋人モードに突入してしまっている氷河をたしなめた。
が、もちろん氷河は、瞬の叱責も気にとめない。
彼は、聖闘士である瞬の前で、堂々と言ってのけた。
「あの不粋な馬鹿野郎も言っていただろう。俺は、誰か一人のために世界を守るタイプの聖闘士なんだ」

ものは言いよう――である。
それは、平和な時代に生を受けた聖闘士だからこそ言える台詞だろうと、瞬は思った。
だが、すぐに、そうではない――と思い直す。
どんな時代、どんな世界にあっても、おそらく氷河はそういう戦い方をするのだろう。
誰かに深く愛された記憶と確信のある人間には、おそらく そういう戦い方・生き方こそが自然なのだ。

人はそんなふうにして、自分以外の誰かから生きる力と戦う力をもらう。
今の瞬自身がそうだった。
だからこそ、瞬は、自分も 自分以外の誰かに同じ力を与えられる人間になろうと思ったのである。
人の世はそんなふうにして続いていくのだ――と。






Fin.






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