「瞬、どうしたの!」 瞬の叫びを聞きつけたエスメラルダが偽のスキュティア卿の部屋に飛び込んできたのは、そんな時だった。 室内の惨状を見てとったエスメラルダが息を呑む様を、瞬は、狂気のように殺気立っている男たちの交える剣の向こうに認めることになった。 『この部屋を出て、その扉を閉めろ』と、瞬が彼女に叫ぶより先に、エスメラルダが室内に倒れるように踏み込んでくる。 そして彼女は、その修羅場から逃げるどころか、二人の争いを止める試みを始めてしまったのだった。 「一輝、やめてっ!」 エスメラルダの悲鳴と、その悲鳴のあとに続いて起こった出来事に、瞬は奇跡を見る思いがしたのである。 エスメラルダの懇願を聞くや、瞬の兄はその動きをぴたりと止めてしまったのだ。 瞬の兄の想定外の動き――静止――に対応しきれなかった氷河の剣が、瞬の兄の額を切りつけてしまう。 そこから赤い線が描かれ始めるのを見て、エスメラルダは再び かすれた悲鳴をあげた。 すぐそこに、血に濡れた剣を持った男が立っているというのに、そんなものは目に入っていない様子で、彼女が瞬の兄の許に駆け酔っていく。 瞬ももちろん、エスメラルダと同じことをした。 「に……兄さん! 兄さん……大丈夫っ !? 」 「に……兄さん?」 額から血を流して机にもたれかかっている男と、彼を気遣う 双子のような少年と少女。 氷河は呆然と、今は明確に氷河を悪党と見なしている三人の姿を、その視界の内に収めることになったのだった。 その三人の中の一人が――氷河にとって最も大事な人が――そんな氷河を睨みつけてくる。 「氷河っ。どうして兄さんを傷付けたりするのっ! やめてって、あんなに頼んだのに、どうして僕の頼みをきいてくれないの! 氷河は僕のものだって言ってくれたのに……兄さんが氷河に何をしたっていうんです!」 「瞬……一輝がおまえの兄だなどと、俺は知らなか……」 「嘘つき! 氷河なんて、大嫌いっ!」 「瞬……!」 氷河の殺気は、既に跡形もなく消え失せていた。 殺気どころか、人としての気概も気迫も、今の彼には持ち得ないものだったのだろう。 彼はただ、瞬の激しい拒絶に おろおろとうろたえることしかできずにいた。 瞬の言う『大嫌い』が『大好き』という意味だということを 瞬の兄が察することができたのは、今にも泣き出しそうな様子で自分を見詰めているエスメラルダの瞳と、涙をにじませて氷河を睨みつけている瞬の瞳が 全く同じものだということに彼が気付いたからだった。 気付いて、何かを諦めたように、両の肩から力を抜く。 「瞬、泣くな。おまえの兄が、こんな馬鹿に深手を負わされることがあると思うのか。ただのかすり傷だ。もう氷河に嘘はつきたくないんじゃなかったのか」 「兄さん……」 兄の慰撫の言葉は、彼の弟の瞳の涙を増すことにしか作用しなかった。 瞬の兄は、泣き虫の弟の涙を止めるために、“こんな馬鹿”の上に ゆっくりと視線を巡らせたのである。 「氷河。いや、真実のスキュティア公爵殿。エスメラルダを俺にくれ」 「なに……?」 「え……?」 それは こんな場面で言うようなことだろうか。 それ以前に、いったいいつのまに そういうことになっていたのだ。 氷河と瞬は、偽のスキュティア公爵の要請にあっけにとられることになった。 エスメラルダだけが、瞬の兄の傍らで頬を上気させ、瞼を伏せている。 瞬の兄の願いは思いがけないものだったが、氷河にとっては願ったり叶ったりのことでもあった。 まもなく我にかえった氷河は、もちろんすぐに瞬の兄に大きく頷いたのである。 「くれてやる。代わりに瞬を俺に――」 「氷河に 「瞬……っ!」 つれない恋人の言葉に、北の悪魔が情けない悲鳴をあげる。 彼はどうやら、瞬の兄への憎悪も、自分の身分や立場も、すっかり忘れ去ってしまっているようだった。 恋人の前に跪かんばかりの勢いで、彼は瞬に懇願してきた。 「瞬。おまえの兄にしてしまったことは謝る。おまえが俺以外の男の腕の中にいるのを見て、ついかっとなってしまったんだ。おまえには、そんな俺の繊細な心がわからないのか……!」 氷河の馬鹿げた言い訳を、瞬はほとんど聞いていなかった。 エスメラルダが兄に寄り添っている。 彼女の胸は今、幸福の予感と期待でいっぱいになっていることだろう。 彼女さえ幸せになってくれるのなら、瞬はそれでよかった。 他のことは、もうどうでもよかったのだ。 「僕は……氷河に夢中になって忘れていた。僕は氷河の側にいる資格がないの。わかってるくせに。僕は男だよ」 「へ……?」 氷河は、まさかそんな言葉で瞬に求愛を拒まれることがあるなどとは考えてもいなかった――らしい。 氷河は、瞬が男子だということは、もちろん知っていた。 知っていて、それでも瞬は母より美しいと確信したからこそ、彼は瞬を抱きしめたのだ。 兄の傍らで悲しげに顔を伏せている瞬を見おろし、その眉を僅かにひそめ、それから気を取り直したように、氷河はエスメラルダに向き直った。 「エスメラルダ嬢、その細い身体に無理をさせない程度に頑張って、なるべく早く 子を 「あの……」 あまりに気の早い、そしてあまり一般的ではない氷河の提案に、エスメラルダが瞳を見開く。 彼女の戸惑いを無視して、氷河は彼の恋人の方を振り返った。 「――というような、詰まらないことを気にしているのか、おまえは」 「だ……だって……」 「そんな心配をしている暇があったら、これから狂ったようにおまえを愛するだろう男の心の方を心配してくれ」 「あ……でも……」 それでは、この広大な領地と城が、氷河の血を一滴も受け継いでいない者に譲られることになる。 貴族の結婚は、そうならないことを避けるために為されることが一般的で、常道でもあるというのに。 だが、氷河はそんなことには本気で全くこだわりがないようだった。 彼の中では、血などより恋――心――の方が、はるかに彼の人生に重きを成す要素であるらしい。 「氷河……でも、僕は……」 「瞬! 今すぐ俺を受け入れないと、おまえは、兄とその奥方の幸福を羨むだけのみじめな人生を送ることになるぞ。そのあげく嫌味な小姑になって、二人に疎んじられることになる。そんなことにならないように、おまえは俺の許に残ると言ってくれ。俺とおまえのために……!」 「……」 よりにもよって、この場面で、そんな口説き方があるものだろうかと、口のきき方を知らない氷河に、瞬は少々腹立たしさを覚えたのである。 だが――。 『俺とおまえのために――』 それは、瞬にとっては魔法の言葉だった。 それが氷河のためになるというのなら、言葉の選び方を知らない不器用な北の悪魔の側にいてやってもいい――側にいたい。 瞬の心と身体が、瞬の理性に必死になって そう訴えてくるのだ。 瞬は、それらの説得に折れるしかなかった。 「僕は……氷河の心や僕の心なんか心配しない。そんなものより、僕は、僕の身体の方が心配です……」 「む……」 それは実にもっともな心配事である。 氷河も、それは、瞬以上に心配だった。 「あー……。それは、その、何だ。今後は おまえになるべく無理をさせないように気をつけよう。神と亡き母に誓う。だから、瞬――」 氷河の誓いがどこまで信用できるものなのか――。 瞬は、氷河の誓いにあまり信を置くことはできなかったのである。 が、それはさほど重要な問題ではなかった。 兄を見詰め、エスメラルダを見詰め、最後に氷河を見詰める。 それで彼等が幸福になれるというのなら、これ以上 詰まらぬ意地を張り通すつもりは、瞬にはなかった。 そんな愚かなことはできない。 「うん……。それなら、僕は氷河の側にいたいです」 「瞬!」 やっと素直になってくれた恋人に安堵したのか、瞬の答えを得た途端に、氷河の瞳が無邪気な子供のそれのように明るく輝く。 自分が 瞬は覚悟を決めて、彼の悪魔の胸の中に飛び込んでいったのだった。 Fin.
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