梅雨の季節には雨が降るのが望ましい。 天から降ってくる自然の恵みによって 植物は命の力を増し、その恵みは人間たちをも潤す。 そして、雨があがったあとの大地は、以前より更に強固なものになって、人の歩みを受けとめることになるのだ。 その日は朝から雨だった。 アテナの聖闘士たちは全員 城戸邸ラウンジで思い思いに時を過ごしていた。 庭では 紫陽花の花が、夏に向かって そろそろ温かみを帯び始めた雨を その身に受け、昨日とは違う色の花を咲かせている。 生きている場所も その姿形も変えることなく、ただ色合いだけをその時々で千変万化させる、人の心のような花たちを、瞬はもう随分と長いこと見詰めている。 瞬が紫陽花の花を見詰めているのと同じだけの時間、氷河は瞬を見詰めていた。 瞬が肘掛け椅子に腰掛けている氷河の方を振り返ったのは、その視線に気付いたからだったかもしれない。 振り向いた瞬の表情は、幸せそうではあったが、悲しそうではなかった。 「氷河、何か飲み物は? いれてくるよ」 「ん」 返事にも言葉にもなっていない声を洩らした氷河より先に、床にあぐらをかいてリストバンドの重さを調節していた星矢からオーダーが入る。 「瞬、俺にも。カフェオレ、甘くないやつ」 「あ、うん。紫龍は?」 「ああ、俺は烏龍茶を頼む。大紅袍の葉があったはずだ。丁寧に淹れてくれ」 「うん、わかった。氷河は?」 「おまえと同じものでいい」 「紅茶になっちゃうよ?」 「それでいい」 「はい」 オーダーを取り終えてドアに向かった瞬を、紫龍が引きとめることになったのは、最初に瞬が声をかけた男のオーダーがあまりに簡単なものだったから、だった。 「ああ、瞬、俺はやはり水でいい」 「え?」 歴代中国皇帝ご用達最高級烏龍茶から突然レベルダウンした紫龍のオーダーに、瞬が首をかしげる。 その視線の先で、紫龍は少々気まずげに唇の端を歪めるみとになった。 「いや……おまけの方が本命より手のかかるものを頼むというのも――」 「誰が誰のおまけ? そんなことあるはずないでしょう。なに遠慮してるの。変な紫龍」 「……」 “遠慮”を得意技にしていたのは、他の誰よりも瞬だったはずである。 にもかかわらず紫龍を諌め、ちらりと氷河を見やってから、瞬は軽い足取りでラウンジを出ていった。 幸せすぎる悲しみに耐えている人間にしては、あまりに軽快な そのフットワーク。 それで、星矢は、解決策はないのだから ひたすら耐えるしかないと結論づけていた、氷河と瞬の上半身問題を思い出すことになったのである。 「例の問題は解決したのかよ。そーいえば」 星矢がその問題を忘れていたのは、先日のバトルでの氷河の怪我以来、氷河が憂い顔を見せることがなくなり、瞬が再び いつも氷河の側にいることを始めていたからだった。 「ああ」 氷河が星矢に短い答えを返してくる。 素っ気ないほど簡潔なその答えは、だが、星矢を非常に驚かせることになったのである。 解決することはできず、ゆえに耐えることしかできない(はずの)問題を解決したと、氷河は申告してきたのだから、星矢の驚きは当然のものだったろう。 「どうやってだよ」 「まあ、色々と、な」 「ぜひ拝聴したい」 それは紫龍にも無関心でいられる発言ではなかった。 星矢だけでなく紫龍にまで身を乗り出す素振りを見せられた氷河は、注視していなければ見逃していただろうほど微かに、その眉をひそめたのである。 彼は、彼が断行した“解決策”を仲間たちに知らせたくなかったのかもしれない。 それでも彼が、重くなりそうな口を開いたのは、星矢と紫龍が瞬の大切な“おまけではない”仲間だからだったろう。 そして、白鳥座の聖闘士がこの難問に対してどういう解決策を用いたのかを彼等に知らせずにいて、瞬の仲間たちが瞬に不用意なことを言ったり したりすることを避けるためでもあったようだった。 一度口許を引きつらせるように歪めてから、氷河は、彼が実践した“解決策”を仲間たちに告白した。 氷河の断行した解決策。 それは驚くべき解決策だった。 もしかしたら、解決できないと思われていた問題が解決したという事実よりはるかに。 氷河は、瞬の仲間たちに、 「実は――先日の戦闘の後遺症で、時々できなくなる」 と告白してきたのだ。 「なに?」 その告白が星矢と紫龍にもたらした衝撃は尋常のものではなかったのである。 氷河の怪我が肩や背中だけでなく脊髄まで損傷するものだった可能性を考えて、彼等は本気で青ざめた。 氷河は仲間たちを驚かせて楽しむ趣味は持っていなかったらしく、すぐに、 「振りをすることにした」 と言葉を続けて、彼等の驚愕を困惑に変えてくれたのだが。 「――どういうことだ?」 何とか気を取り直し、氷河に説明を求められる状態になるまでに、紫龍は2分強の時間を要した。 氷河が、さほどの間をおかず、仲間の求めに応じる。 「つまり、3日に一度くらい、できない振りをすることにしたんだ。できなかった時には、瞬は俺を気遣うことに夢中になって、幸せすぎることの罪悪感になど浸っていられなくなる。できた時は、 「……」 上半身問題に移行したはずの下半身問題が全身問題になったのかという危惧が杞憂にすぎなかったことは喜ばしい。 だが、そんなとんでもない解決策を、特に大したことでもないように、至極 落ち着いた表情で語ってのける氷河に、星矢と紫龍はあっけにとられてしまったのである。 否、彼等は、そんな“解決策”を実践できてしまう氷河という男に驚愕していた。 「そ……んな話は聞いたこともないぞ。夫婦円満のためにできない振りをするなど」 紫龍の声が、珍しく、僅かにとはいえ掠れる。 「できるのにできない振りするのって、滅茶苦茶つらいんじゃねーか?」 「瞬のためだ。耐える」 氷河の返答には、いささかの震えも迷いもない。 「耐える――って、おまえ……」 氷河の悲壮な決意を知らされた星矢は、我知らず、世界一不幸な男を見る目で白鳥座の聖闘士である男を見ることになってしまったのである。 世界一不幸な(ばすの)男は、だが、彼の仲間たちの前で不幸な振りすらしてみせてはくれなかった。 「まあ、瞬に、『子供の頃みたいに手だけつないで眠るのも素敵だよね』なんてことを言われるのも、なかなか乙なものだぞ」 そんな言葉を、おそらく氷河は実際に瞬に言われたのだろう。 同じ男として、その心中は察するに余りある。 星矢は、あろうことか、氷河のために、氷河の代わりに泣いてやりたくなってしまった。 「人間は ほどほどに幸せなのが、いちばんいいんだなー」 そんな悲壮なことができるほど惚れた相手に巡り会えた氷河を幸運幸福な男というべきか、不運不幸な男と言うべきか。 それは第三者が安易に決定してはならないことだろう。 氷河の幸不幸を判定することは、瞬にもできないことである。 ただ、氷河が瞬の罪悪感を伴わない幸せのためになら、そんな悲壮なことでもしてのける男だという事実だけを、星矢は認め、感動した。 「正直、俺はおまえのことを自分のことしか考えてない我儘な男だと思ってたけど、見直した。瞬のためだ。頑張れよ」 「ああ」 氷河はその口許に笑みすら浮かべて軽く頷くが、彼の仲間たちにはそれは軽く頷いて済ませられることではなかった。 持てる力を思う存分 発揮できないということは、人間にとって、持てる力以上のものを求められることより つらく苦しいことなのではないだろうか。 己れの持てる力を用いて事を成すことを自己実現と言い、この世には それを人間の生の最大唯一の目的とみなしている者も数多く存在する。 たとえ下半身の力のこととはいえ、持てる力を発揮することができない――しない――ということは、人間の生の本来のあり方に真っ向から逆らう行為であると言っていいだろう。 氷河はそれをする――現にしている――と言っているのだ。 恋とは、そこまでしなければならないものなのか。 そこまでしなければ、恋を実現させることはできないのか。 自分が幸せなら他はどうでもいいと考えるような人間が相手だったなら、氷河もここまで苦労することもなかったろうに、よりにもよって愛他主義の権化のようなアンドロメダ座の聖闘士を好きになってしまったせいで、氷河はそんな過酷な鎖に縛りつけられることになってしまったのである。 否、自らの手で我が身を縛りつけている。 もちろん氷河は、そういう人間だからこそ瞬を好きになったのではあろうが、それにしてもこの悲壮――。 『俺なら耐えられない』と星矢は思ったのである。 「氷河」 その時、ラウンジのドアの向こうで氷河を呼ぶ声がした。 掛けていた椅子から立ち上がり、氷河がそのドアを開けてやる。 その場にトレイを持った瞬の姿を認めると、氷河はその瞳と唇に微笑を浮かべた。 その微笑がごく自然に浮かんだものに見えることに、星矢は背筋が凍る思いを味わったのである。 星矢のカフェオレと紫龍の烏龍茶をテーブルに移してから、瞬は、同じ色の液体の入った二つのカップを氷河と自分の前に置いた。 「お茶、ダージリンでよかった?」 「ああ、すまん。ありがとう」 「ううん。肩の傷、大丈夫? 部屋の湿度、下げた方がいい? 上着持ってこようか?」 氷河の怪我を気遣う瞬は、そうしていられることが嬉しいらしく、また幸せそうでもあった。 氷河にここまでされて瞬が幸せでなかったら、それは世の中が間違っていると思う。 だから、この現状は正しいのだろう。 だが、それにしても。 瞬はあまりに特殊すぎる人間で、氷河はあまりにも特殊な恋人で、二人はあまりに特殊な恋をしている――と、星矢は思ったのである。 それとも、世の恋人たちは皆こうなのだろうか――と。 そんな馬鹿なことがあるはずがないと思う一方で、あるいはむしろ、すべての人間関係は、多かれ少なかれ、こんなふうに成り立っているのかもしれないという考えも湧いてくる。 人と人との間に結ばれる絆は どれもすべて、相手を思い遣ることで成り立っているのかもしれない。 その思いがなければ、人は自分以外の他者との間に絆を結ぶことはできないのかもしれない。 真の幸福に至ることができるのは、そういう絆を手に入れることのできた人間だけなのかもしれない――。 おそらく、人が自分を本当に幸せだと感じる時、彼が感じている真の幸せの半分は人を思い遣る心でできているのだ。 そして、残りの半分は、自分が人を思い遣ることのできる人間でいられることの喜びで。 Fin.
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