『喉元過ぎれば熱さを忘れる』は、星矢のためにある言葉である。
瞬が元の瞬に戻るや、星矢もまた たちまち元の彼に戻った。
そして、星矢は早速 自分の好奇心を満たすための活動を開始したのである。

「で、おまえが見た悪夢ってのは どんな代物だったんだ? 死んだのは氷河か? それとも一輝?」
少しも懲りた様子を見せない星矢を殴りつけたいのは山々だったのだが、氷河と一輝がその衝動を行動に移さなかったのは、結局のところ、星矢が知りたがっていることが彼等の知りたいことでもあったから――だったろう。
爛々と瞳を輝かせ興味津々で詰め寄ってくる星矢に、瞬は一瞬 苦しそうに その眉根を寄せることをした。

「氷河……」
「氷河の方か!」
歓声に似た星矢の声に、瞬の兄がむっとした顔になる。
そして、本来ならその答えを小躍りして喜んでいいはずの氷河は、反応らしい反応を示さなかった。
幻魔拳などという最悪の拳を撃つ力を有していたばかりに、最愛の弟を傷付け苦しめなければならなくなった瞬の兄の苦渋を思うと、さすがの氷河も 瞬の最悪の悪夢を手放しで喜ぶことはできなかったのである。

彼がそこで踊りを踊り始めなかったのは、他の誰でもなく氷河自身にとって幸いなことだったろう。
瞬の最悪の悪夢は、瞬の恋人が死ぬものではなかったのだ。
より正確に言うならば、瞬の恋人だけが死ぬものではなかった。
瞬の唇は、氷河の名に続いて、彼の兄の名、仲間たちの名を、頼りない響きで次々に連ね始めたのだ。
「兄さんも、星矢も、紫龍も、さ……沙織さんまで――」
瞬の兄が瞬の中に作り出した悪夢の記憶が、瞬の瞳に涙を浮かべさせる。
「みんなが死んじゃって、世界中の人たちがみんな死んじゃって、僕だけ、誰もいない荒地に一人で立ってるの……」
その光景――世界から自分の命以外のすべての命が失われた光景――は、怒りや苦しみや悲しみさえ通り越して、ひたすら寂しく索漠としたものだったのだろう。
記憶の中のことだけでも――瞬が嘆き悲しむのは当然のことである。
それは、自分が生きて存在していることすら無意味にして無価値と感じずにはいられないような世界であったに違いないのだ。

「……」
「……」
瞬の悪夢の内容が、氷河と一輝を沈黙させる。
彼等にとって それは、幻魔拳によって瞬が見せられた虚無の世界より空しい沈黙だった――かもしれない。

「は……ははははは……」
息詰まるような――もとい、息をするのも空しく思えるような――長い沈黙。
その沈黙を破って、やがて城戸邸ラウンジには星矢の空しい笑い声が響き渡った。
「そりゃそうだよなー。瞬だもんなー。誰か一人のはずないよなー」
発する言葉の語尾に全く力がない。
あれほど激しく燃え上がっていた星矢の好奇心は 今、真夏の夕刻の朝顔の花よりも しぼんでしまっていた。

「考えるまでもないことだったな」
今回の騒動の間、アテナの聖闘士たちの中で唯一人 常識と節度を維持できていたと言っていい紫龍が、至極穏やかな態度と口調で、華麗なまでに残酷かつ悲惨な結論を口にする。
紫龍がはっきりと告げてくれた結論は、星矢に続いて一輝と氷河の肩までをも がっくりと落とさせることになった。
勝利か敗北か。
そのどちらかを手に入れることができると期待し、恐れてもいた二人にとって、この結末はあまりに空しいものだったのだ。

「俺は……俺たちは、瞬にとってその他大勢の中の一人なのか……」
「大切な人たちの中の一人なんだろう。でかい図体をして いじけるな。少しも可愛くない」
紫龍の辛辣な言の方が、瞬の博愛主義より はるかに優しい感触を持っている。
そう感じてしまうほど、二人の男の落胆は大きなものだった。


翌日、一輝はまたふらりと城戸邸を出ていった。
「危険人物は瞬の側にいない方がいいだろう」
と殊勝なことを言っていたが、彼が城戸邸を出ていった本当の理由は――第一の理由は――それではなかっただろう。
実のところは、自分が瞬のいちばんでなかったことが、彼には相当のショックだったのだ。
どうこういっても、ただ一人の肉親である。
自分だけは特別だと、彼は心のどこかでうぬぼれているところがあったのかもしれない。
心の傷を癒すために旅に出ていった一輝に比べれば、
「おまえにキスを拒まれて、俺がどれだけ傷付いたか!」
と瞬を責めて、不埒な行為に及ぼうとしている氷河の方が はるかに図太い神経を持った男なのかもしれなかった。

瞬は、文句も言わずに そんな氷河の相手をし、苦難の末に取り戻した仲間たちへの態度も以前のそれに戻った。
否、それは以前よりも優しさと強さを増したものになっていたかもしれない。
仲間たちに向ける眼差しだけでなく、城戸邸の庭に咲いている花に向ける視線すらも、瞬のそれは以前より愛情深いものになった――ように、紫龍の目には映ったのである。

「もう大丈夫なのか」
紫龍が尋ねると、瞬は、花の中で、彼の大切な仲間に明るい笑みを見せ、そして頷いた。
「人は、自分の幸福な光景だけを思い描くことばかりして、その通りにならないと言って嘆くけど、時々なら、最悪の事態を想像して 現実がそうじゃないことに感謝してもいいかもしれないね。ありがとう。もう大丈夫だよ」

今は 氷河や一輝や星矢より強く凛として見える瞬が、彼の仲間を失っていた時には あまりに頼りなく弱々しい人間だった。
人が生きていくための力というものは、結局は人から与えられるものなのだろうと、紫龍はしみじみ思ったのである。
「思い描く 最悪の事態がどんなものかで、自分の価値観を知ることもできるしな」
苦笑混じりの紫龍の言葉に、
「この世界には大切なものしかないよ」
瞬は そう言って微笑んだ。






Fin.






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