城戸邸の図書室の児童書が並んだ棚をやりすごし、オーディオ関連のデータが並ぶコーナーに向かう。 その棚の一段を『こども音楽館』というシリーズ名の全集が占めていた。 おそらくは幼い日の沙織のために揃えられたもの。 子供にオペラやバレエの音楽を絵本と共に紹介することを目的とした全集らしく、『コッペリア』や『白鳥の湖』、『魔法使いの弟子』や『ペール=ギュント』等、錚々たる名曲のタイトルが並んでいる。 その中の1冊、『ローエングリン』の絵本の表紙を見た途端、瞬は歓声をあげた。 「これだ! これだよ、氷河! 僕の白鳥の騎士!」 やはり それが瞬が探していたものだったらしい。 瞬は早速 書棚のすぐ脇にある閲覧用のテーブルに その絵本を広げ、嬉しそうにページを繰り始めた。 数ページ読み進んだところで、ふいに小さな笑い声を洩らす。 「思い出した。僕たちが小さかった頃、ここは氷河のお気に入りの場所だったでしょう。氷河は絵本は見ずに、シューベルトの『アヴェ・マリア』ばっかり繰り返し聴いてた。僕、氷河が相手してくれないから退屈で、それでここに並んでる絵本を片端から読んでいったんだ」 シューベルトの『アヴェ・マリア』。 それは氷河の母が好きな曲だった。 氷河がその曲を聴いて母の思い出に浸っていた時、同じ場所で、瞬は未来のための思い出を作っていたものらしい。 大切な思い出の絵本。 だが、瞬は、その絵本に最後まで目を通すことなく、ページを閉じてしまったのである。 表紙の白鳥の騎士の絵にもう一度視線を落とし、瞬はその目に不思議な笑みを刻んだ。 思い出は思い出のままにしておいた方がより美しいという事実に気付いた者の悔いと、思い出よりも美しいものを手にしている今の自分の幸運に気付いた者の喜び。 瞬の笑みはそんなもので できた笑みだったらしい。 白鳥の騎士の絵から視線をあげた瞬は僅かに首をかしげ、邪気が全く感じられない声で、 「でも、この白鳥の騎士、僕の記憶の中でかなり美化されちゃってたみたい。氷河の方がずっと綺麗でかっこいいね」 と言った。 「――」 既に純粋な子供でなくなっていた氷河は、瞬の賞讃を素直に喜んでいいのかどうかを迷うことになったのである。 そして、そんな自分を顧みて、詰まらぬ分別がついてしまったものだと自嘲気味に思った。 瞬が『綺麗でかっこいい』と言ってくれているのだ。 素直に喜んでしまえばいいものを、と。 そんな氷河の顔を、ふいに瞬が至近距離から覗き込んでくる。 幼い子供のように大きな瞳。 だが、詰まらぬ分別を備えてしまった大人のそれより はるかに深い色をたたえた瞳。 その瞳に出合って、氷河の心臓は 一度大きく跳ね上がったのである。 「氷河って心配性だね。僕の先生のことは――」 氷河を見上げる瞬の瞳は穏やかに凪いでいた。 もちろん楽しそうではなかったが、殊更 悲観しているようでもない。 「僕がアンドロメダの聖衣を授かった時、先生は僕に言ったんだ。『地上の平和や安寧は、たった一人の人間の力で築くことができるものではないし、10年20年程度の短い時間で打ち立てることのできるものでもない。それは、一度築いたら、営々と守り続けなければならないものでもある。自分ひとりで、自分が生きているうちに目的を実現できると考えるようなことはしない方がいい。ただ自分は平和の礎の一つになろうと思えばいいんだ』って」 「平和の――礎の一つ?」 「うん。『アテナの聖闘士は、もちろん理想の実現のために意欲をもってあらゆることに臨んでいかなければならない。しかし、気負いすぎてもいけない。気負いすぎると、彼は、己れの手で実現できない平和に傷付き、自分の無力に失望することになるだろう。だが、そんなふうに考えずに不断の努力を続けていれば、いつか必ずその目的と理想は実現できる。自分が実現できなかったら、その意思を継いだ者がその先に進んでくれる。私が死んだら、おまえが、おまえが道半ばで倒れても、おまえの意思を継ぐ者が必ず現われる。だから、私も、おまえも、誰も、自分は何も成し遂げられなかったと嘆く必要はないんだ』って」 瞬は、師の言葉を一言一句忘れずに記憶しているらしい。 氷河は、瞬の師がどういう人物だったのかを よくは知らなかった。 ただ、時折 瞬が彼を語る言葉の端々から、彼が尊敬に値する聖闘士だったのだろうことを察していただけで。 その推察は間違っていなかったのだろう。 彼は彼の愛弟子に消えない希望を与えることのできる人物――聖闘士としても、聖闘士の師としても優れた人物だったのだ。 師を語る瞬の声には、敬意と愛情がこもっていた。 「だから、僕は、アテナの理想の達成者になろうとは思っていないんだ。その実現のための礎の一部になれればいいと思っている。でも、それがなきゃ平和は築かれることはないんだ。僕は小さな石ころにすぎないかもしれないけど、それはとても大事な石ころで――だから、僕は諦めないし、絶望もしない。逃げたりもしない。僕は一人じゃないから」 「そうか……よかった」 安堵と、すべては自分が一人で空回りしていただけだったのだということを知らされたための虚脱感。 瞬の傷心や、瞬が負ったであろう痛手を、自分が案じる必要はなかったのだと、氷河は少し寂しい気持ちで思った。 もちろん、瞬の師の指導の確かさに安堵し、師の教えをしっかりと受け止めている瞬の強さにも安堵はしたのだが。 複雑な思いの混じった吐息を洩らした氷河を見詰め、瞬が小さな含み笑いを浮かべる。 「氷河って、お母さんみたいに心配性で、お父さんみたいに優しいね」 それはいったい どういう例えなのだと反駁しかけた氷河は、だが、その反駁を声にしてしまうことができなかったのである。 瞬が、一人で空回りをしていたそそっかしい男の姿を、その瞳に映していた。 瞬の瞳の深さに、氷河は息を呑むことになったのである。 「氷河の優しさに感激した 氷河の小人さんが、氷河に何かしてあげたいって思ってるみたいだよ」 「あ……」 それは挑発ではなかったろう。 挑発ではなく、誘惑だった。 瞬の清楚な笑顔が、清楚な面差しはそのままに艶をも含み始めている。 比喩ではなく本当に、瞬の瞳の中に引き込まれてしまいそうになって、氷河は軽い目眩いを覚えることになったのである。 「ひ……氷河は、氷河の こ……小人さんに、今夜、俺の部屋に来てほしいと思っている――」 さらりと言ってしまえばいいのに、何を無様にどもっているのかと、氷河は内心で自分の頭を殴りつけてしまったのである。 氷河の動揺を見透かしたように、瞬の瞳と唇は更に誘惑の力を強めていく。 「氷河が正直者で働き者で優しい人だったなら、小人さんはきっと氷河の部屋に行くと思うよ。小人さんはそういう人が好きだから」 「お……おまえはそういうのが好きなのか?」 それなら自分は馬鹿がつくほどの正直者になってやると、氷河は5歳の子供の素直さで思ったのである。 瞬は、はっきり そうだと答えることはしなかった。 僅かに頬を上気させ、あくまでも一般論として、瞬は小人の物語を語り続けた。 「正直者で働き者で優しい人でいれば、誰にだって、きっといいことがあるんだよ。でも、小人さんが行ってあげられない時もある。現実って理不尽なのでもなく、醜悪なのでもなく、ただそれだけのこと――小人さんの都合がつかないだけのことなんだ」 「なるべく都合をつけてほしい。これからも」 「氷河が正直者で働き者で優しい人でいる限り、氷河の小人さんは、氷河の願いを叶えるために努力し続けると思うよ」 努力はする。 しかし、その努力が必ず報いられるとは限らない。 それが現実である。 現実の世界は、絶対的に醜悪なのではなく、また奇跡のように美しいものでもない。 だが、正直で勤勉で優しい心を持つ人に報いようと努力を続ける小人のいる この世界は何と素晴らしいのだろう。 心の底からそう思って、氷河は、恐ろしく魅力的な彼の小人を強く抱きしめた。 Fin.
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