「天国は、神の御許ではなく、おまえの中にあるぞ」
ばち当たりなことを言って、氷河が覆いかぶさるように瞬の身体を抱きしめる。
「ああ……っ!」
終わっても、一向に瞬の中から身を引いてくれない氷河のせいで、先ほどから瞬の意識と五感は混乱しっぱなしだった。
天国がどこにあるのかは、瞬にも嫌になるほどよくわかったが、生きている人間が天国にい続けると狂気に陥ってしまいそうになる。

「氷河……氷河、お願い。一度 僕を放して。自由にして……ああ……っ」
「そんなことを言っても、俺を放そうとしないのは、おまえのここの方で」
「ああ……いや、だめ、動かないで、いや、ああ!」
「動かなければ、おまえの中から出られない」
「動いて……ああ、だめ、動かないで……氷河、いやっ」
さすがにこれ以上 瞬の中に留まり続けると、瞬は狂ってしまいかねない。
瞬を乱れさせたいのではなく、困らせたいのでもなく、本当にただ瞬の中に留まっていたいだけだった氷河は、断腸の思いで瞬から身を引いた。

「ああ……!」
瞬に言われた通りにしただけなのに、瞬が悲しげな声をあげる。
瞬の尋常でない乱れようが、手に入らないと諦めていたものを手にした喜びのせいで、自分の尽きない欲望が、必ず自分のものにすると決めていたものを ついに手にした喜びのせいだということを、氷河は知っていた。
実際、これ・・は神を騙しても手に入れる価値のあるものだったと、氷河は大いに満足していたのである。
瞬の胸が、大きく上下している。
指で触れると、瞬のそこは、まだ ひくひくと痙攣していた。

「離れてやったぞ。少しは落ち着け」
氷河にそんなことを言われてしまった瞬が、頬だけでなく耳たぶまで真っ赤に染め、そして泣きそうな顔になる。
「ひょ……が、僕がいいって言うまで黙ってて」
喘ぎながら、瞬は彼の主人である男に命じた。
氷河は、もちろん瞬の命令に従ったのである。
瞬に言ってやりたいことはまだまだ たくさんあったのだが、これは今夜だけのことではなく、明日も明後日にも行なわなければならないことなのだ。
瞬の機嫌を損ねたくはない。

躾の行き届いた犬のように大人しく、瞬の『よし』を待っていた氷河の頬に、やがて、何とか呼吸を整え終えた瞬の手が触れてくる。
どうやら、それが瞬の『よし』の合図だったらしかった。
「僕は……氷河はもっと強いのだと思っていた。価値を認められないものは無視するけど、欲しいものがあったら、それを手に入れるためにどんな努力もする。逃げることなんて考えもしない。それが氷河だと――」
瞬の心配そうな瞳が、氷河の瞳を見上げ、見詰めている。
初めての交合がどんなによかったかという話を聞けることを期待していた氷河は、瞬のあまりに生真面目な言葉に少々 落胆することになったのである。

「まあ……おまえのその評価はおおむね正しいな」
どうやら、この生真面目の原因を解体してやらないことには、瞬から楽しい感想を聞くことはできないらしい。
許されるはずのない恋と諦め絶望していた恋が急転直下の展開で“許される恋”になり、そうと決まった途端に、瞬はその恋の相手によってベッドに引き込まれてしまったのだ。
瞬が楽しいことだけに耽溺できないのも無理からぬことである。
だから、氷河は、瞬の混乱と誤解を解いてやることにした。
もう瞬は自分のものになったのだ。
そして、永遠に自分だけのものにしておけるだろう。
焦ることはないのだと、氷河は自分に言いきかせた。

「俺が修道院に入ると言い出したのは、修道士になることに比べたら、男と恋仲でいる方がずっとましだとカミュに思わせるためだ。要するに狂言。カミュが俺の妻にする女の物色を始めて、それだけならまだしも、それを国王に依頼したなんて馬鹿なことを言ってきたからな。カミュが見付けてきた女ならまだしも、国王が政治的な配慮で俺に当てがおうとする女じゃ、断るのも難しいし、そんなことをして王の機嫌を損ねることは、我が家に不利益をもたらすことにもなりかねない。ゆっくり説得する余裕はなかった。急いでどうにかしなければならなかった。俺はおまえへの誠意を貫きたかったし、好きでもない女を妻に迎えて、その女を不幸にするのも忍びなかったからな」
「え……?」

あっけらかんとした口調でそう告げる氷河に、瞬は一瞬 言葉を失ってしまったのである。
言葉と声を取り戻しても、思考が追いつかず、瞬は、
「きょ……狂言……?」
と、氷河の告げた言葉を反復することしかできなかった。
それは、実に、瞬の知っている氷河らしい行為と言えば言えたのだが、それでも瞬は驚かないわけにはいかなかったのである。
あまりに氷河らしすぎて、溜め息を禁じ得ない。

「……氷河にも、そんなふうに弱いところがあるのなら、僕が支えてあげなくちゃって思っていたのに、全部 計画通りだったの……」
「支えていてくれ。いつまでも。俺にはおまえが必要だ。おまえと引き離されることになるかもしれないと思った時には絶望的な気分になった。絶対にそんなことはさせないと、今回のことを企んだんだ」
「もう……」
これを無謀と言うべきか、大胆と言うべきか。
氷河の氷河らしさに呆れ、同時に安堵もして、瞬の身体と心からは 緊張感と力が勢いよく抜けていってしまったのである。

「叔父君が折れなかったら、どうするつもりだったの。本当に修道士になるつもりだったの」
「その時には、おまえを連れて、どこかに姿をくらますつもりでいた。ここより南の暖かい場所なら、おまえが喜ぶかと思って、2、3箇所 目星をつけて、偽名で購入を打診していた館もあったんだが――」
氷河の修道士宣言が狂言だったと知らされた時点で 既に、瞬の中には 何かに驚くための力は残っていなかった。
彼の恋を全うするために、氷河が二段構えの計画を立てていたことを知らされても、もはや瞬には驚くことさえできなかったのである。
自分が懸念すべきは、氷河の弱さではなく、氷河の暴走の可能性と危険性の方なのだと、瞬はしみじみ思うことになった。

「氷河は成功した領主になると思うよ。緻密な計画を立てる能力があって、周到な用意をする根気があって、おまけに並外れた決断力と実行力までを備えている」
「立派に領主の役を演じてみせるさ。誰にも文句は言わせない。万一、カミュが俺からおまえを引き離すようなことを画策したら、暴君に早代わりして、馬鹿な考えを改めさせてやる」
「ひどい。氷河の叔父君は、氷河に立派な領主になって幸せになってほしいって、それだけを願っているのに」
「ああ、そうだろうな。叔父上が幸福とはこうあるべきだと考えている型に、俺を当てはめて――」
それが“甥の幸せだけを願っている”叔父への非難になりそうだったからだろう。
氷河は途中で言葉を途切らせた。
そして、
「まあ、カミュは昔気質かたぎで保守的だからな」
と、やわらかい物言いに改める。

「そんな言い方は……そういう視点もあるのだと――」
「わかっている。カミュのそういうところに、俺は好意を持っているし、尊敬もしているぞ。実に扱いやすい」
氷河の“尊敬”は一般的な“尊敬”ではないようだったが、彼が彼の叔父に好意を抱いていることは事実だろう。
そういう尊敬の仕方もあるのだということで、瞬はそれ以上 氷河に“普通”や“常識”を求めることはやめることにした。

「でもよかった。氷河が幸せになろうっていう気持ちを諦めてしまっていたのじゃなくて。自暴自棄であんなことをしたのじゃなくて――」
「俺の幸福には、俺一人だけではなく、おまえの幸福がかかっているからな。俺といつまでも一緒にいたいと思ってくれていただろう?」
自信満々で、氷河が言う。

『ただ、おまえに俺の気持ちを知ってほしいだけだ。おまえに何をしてくれというのでもない。不快なら忘れていい』
昼間、カミュの前でしおらしく口にした告白はいったい何だったのかと、瞬は呆れることになったのである。
憎らしいやら、嬉しいやら――だが、やはり嬉しさの方が先に立つ。
何といっても、氷河が自信満々で告げた言葉は紛れもない事実だったので、反論ができない。
だから、瞬は、素直に喜ぶことにしたのである。
「僕の気持ち、知っててくれたんだ……」
嬉しい。
結ばれることはおろか、その思いを知ってもらうことさえできないと諦めていた恋が実ったのだ。
瞬は嬉しくてならなかった。

「そうだよ。僕はずっと氷河が好きだった。たとえその場所が修道院の中でも、氷河と一緒にいられるなら、それでもいいと思った」
「俺は御免だな。修道院の中では、こんなこともできない」
笑いながら、氷河が瞬の内腿の間に手を差し入れてくる。
「あ……んっ」

瞬は、反射的に目と脚を閉じることになったのだが、それが決して拒絶の仕草でないことを、氷河は既に承知しているようだった。
「今度は俺の手を昇天させてくれるのか? 奇抜な天国への招待状だな」
「そ……そんなことできるわけが……!」
「おまえのここなら できるかもしれない。俺の手を昇天させることも」
「氷河、もう黙って!」
いったいどうして自分は、この氷河が高潔な志をもって修道士になることを決意したのだと思うことができたのか。
今となっては、瞬は、そんな誤解ができていた自分が不思議でならなかった。

瞬の命令に従った氷河が、無言で瞬の身体のあちこちに手をのばし始める。
結局 氷河は、無言の愛撫で瞬に再び その身体を開かせてしまった。
そして、また瞬の中に入ってくる。
「あああああ……っ!」
喉と背中を弓のようにしならせ反らしながら、瞬は心身で実感することになったのだった。
諦めていた恋が実った喜びと、そして、氷河は確かに俗世向きの男だという事実を。






Fin.






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