氷河が昨晩 学校からの安否確認メールに返信できなかったのは、彼のPCのメール受信フォルダが容量をオーバーしてしまっていたせいだった。
氷河の顔にイカれた外部の女の子たちから送られてきた大量のメールがサーバーの容量をオーバーしてしまったために、学校側が送信した安否確認メールを、氷河のPCは受信できていなかったのである。
なにしろ、氷河の許に届く それらのメールは業者のスパムメールより大量。
しかも、彼女たちからのメールは、そのほとんどが、データ圧縮ということさえ知らない中高女子生徒がメガ単位の写真データを添付して送ってくるメールばかりだったのだ。
それは、起こるべくして起こった事態だったろう。

氷河がポプラの木の上にいたのは、瞬に『優しい』と言ってもらえたことが嬉しくて、その嬉しさのせいで興奮し眠れなかった氷河が、自分の頭を冷やそうとしたため。
しかしながら、沸騰している頭を冷やすためだけであれば、彼は別に高いところに登る必要はなかったはずである。
その点を星矢に指摘されると、氷河は真顔で、
「それはそうかもしれないが、少しでも星に近いところに行きたかったんだ」
という、理由になっていない理由を披露してくれた。
おかげで、星矢と紫龍は、恋する男の思考回路や生態はやはり わからない――と、呻ることになったのである。

その一件があってから、氷河は以前より堂々と(あるいは、図々しく)、瞬への接近を図るようになった。
星矢は、氷河が一方的に瞬につきまとっているのだと決めつけて、氷河の開き直りに呆れ果てていたのだが、やがて彼は、氷河につきまとわれることを瞬が迷惑に思っていない――むしろ喜んでいる――ことに気付くことになったのである。
氷河があれこれと理由をつけて瞬の側にいたがることに、瞬もまんざらではない様子なのだ。

その事実に気付いた星矢はつい、
「おまえ、氷河に中身があると思ってんの?」
と、尋ねてしまったのである。
星矢とて、氷河に“中身”が全くないと思っていたわけでなかったが、氷河の“中身”は、出会って ひと月足らずの人間が簡単に理解できるようなものではないと、彼は思っていたのだ。
が、瞬は、大して迷ったふうもなく、星矢に即答してきたのである。
「顔じゃなくて中身を見てほしいなんて考えるところが、氷河は健気で可愛い」
と。

「へっ」
瞬は、冗談を言っているようではなかった。
氷河は健気で可愛いと、瞬は本気で思っているようだった。
「それに、氷河はとっても素直だよ。僕に、なるべくたくさんのものを好きになった方がいいって言われたから、まず僕を好きになることから始めることにしたんだって」
「氷河がそう言ったのか? あの氷河が、どのツラ下げて、そんなこと言ったんだよ!」
「あの綺麗な顔で。氷河って、人を疑うことを知らない子供みたいに澄んで綺麗な目をしてるよね」
「……」

季節は、まだ冬と言われる頃。
図書館のラウンジの窓から見える風景は まだ冬のそれ。
だが、氷河の“中身”について語る瞬の表情と眼差しは、あろうことか すっかり春めいていた。
「僕も、なるべく多くのものや人を好きになった方が人生は楽しいって思ってるから――」
「氷河を好きになることにしたのか?」
星矢に問われたことに、瞬はにこにこ笑うだけで、はっきりと言葉で答えることはしなかった。
だが、星矢には、それだけで十分だったのである。
氷河が瞬に好意を抱いているように、瞬もまた氷河に好意を抱いているという事実を認めるには、それだけで十分だった。

そして、星矢は、さすがに この展開にあっけにとられることになったのである。
あっけにとられ、言うべき言葉を咄嗟に思いつけず 星矢が沈黙したところに、折り良く(?)氷河登場。
彼は瞬のすぐ隣りにいる星矢の姿など視界に映っていないように一直線に、瞬の側に駆け寄ってきた。

「瞬。ここで使っているテキストに載っていて、おまえが使っていた中学のテキストに載っていなかった事項を抜き出してきてやったぞ。とりあえず5教科分。一応、頭に入れておけ」
「え? 中学のテキストなんて、氷河には退屈だったでしょう」
手渡されたUSBメモリを見ながら、瞬が氷河に尋ねる。
それは結構な手間と時間がかかる作業だったはずなのに、氷河は事もなげに首を横に振った。
「真面目なおまえなら大丈夫だろうが、万一トップの成績を維持していられなくなったら、俺たちは容赦なく退学にされてしまうんだからな。せっかく好きになったんだ。長く付き合っていたい」
「それは、僕だって、できるだけ長く氷河と一緒にいたいけど……ありがとう、氷河」

少なくない手間と時間を要する作業も、氷河には瞬の『ありがとう』だけで報われるものだったらしい。
瞬に感謝の言葉を告げられると、氷河は、健気で素直で 人を疑うことを知らない子供のように嬉しそうな笑顔を、その顔に浮かべた。
氷河のその献身・健気が、星矢には信じられなかったのである。
今 自分の目の前で、飼い主に頭を撫でられた犬のように嬉しそうな顔をしている男が、つい1ヶ月前まで 世を拗ねた みなしごを気取って 斜めに構えていた男と同一人物だという事実を、星矢は容易に信じることができなかった。

紫龍が氷河と共に図書館にやってきたのは、特に図書館に用があったからではなく、恋する男が その恋ゆえに馬鹿なことをしでかさないか心配してのことだったらしい。
氷河の豹変振りに呆然としている星矢の姿に目をとめると、彼は、氷河に同情しているのか 星矢に同情しているのかの判断が難しい言葉と態度で、星矢に現実を認めることを促してきた。

「そんな珍獣を見るような目で見てやるな。氷河は、以前とは比べものにならないほど、いい顔をするようになったじゃないか」
「いい顔? 何がいい顔だよ。あれは、間抜けでおめでたい顔っていうんだよ! 夏場のアイスクリームだって、あれに比べたら もう少し しゃんとしてら!」
星矢の酷評に紫龍が苦笑する。
それには、紫龍も同感だった。
同感だったのだが。

「好きなものは多くあった方がいいという瞬の持論は真理かもしれないな」
「氷河が好きなのは瞬だけだろ」
「それでも、好きなものが何もないよりずっといい」
「……そうみたいだな」
紫龍のその言葉には、星矢も頷かないわけにはいかなかったのである。
氷河は確かに、これまで星矢が見たこともないような幸せそうな顔をしていたから。

大好きな人がいる。
おそらく自分自身よりも好きな人が、ただひとりいる。
人間という生き物は、それだけのことで世界一幸福な存在になることのできる生き物らしかった。






Fin.






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