この村に特別な力を持つ人間はいない。 聖闘士になり得る力の片鱗を感じさせる者はいない。 若い男だけでなく、老人から女子供まで、ほとんどすべての村人と接し終えたヒョウガが辿り着いた結論がそれだった。 ヒョウガが、この村で どこか何かが特別だと感じる人間はシュンだけ。 他には、せいぜい年齢不相応に聡明すぎる村長の妹娘くらいのもの。 しかし、この二人は、村の中で最も攻撃的な心を持たない者たちでもあった。 ドイツの片田舎の村にやってきて1ヶ月。 ヒョウガは自らの去就に悩み始めていた。 聖闘士を見付け聖域に連れていくことは(もし該当する人間がこの村にいるのなら)容易なことだが、この村に確実に該当者がいないことを確認証明することは 極めて困難な作業である。 さっさと見切りをつけて いったん聖域に戻り、アテナに助言をもらってから出直した方が賢明かもしれないと思いはするのだが、結局 ヒョウガは村を離れることができず、ずるずると滞在期間を延ばしていた。 この村に聖闘士とおぼしき人間はいない。 だが、特別な人間はいる。 要するに、ヒョウガは、シュンと離れてしまいたくなかったのである。 もし自分がこの村を離れることがあったなら、それは聖闘士が見付かった時ではなく、シュンが自分と一緒に この村を出る決意をしてくれた時なのではないかとさえ、ヒョウガは思い始めていた。 シュンは この村にも村の住人たちにも一方ならぬ愛着と親しみを抱いているようだったが、シュンがこの村よりも つい1ヶ月前に知り合ったばかりの男を選んでくれる可能性は決して絶無ではない。 ヒョウガがそんな希望から離れてしまえなかったのは、共に過ごす時間を重ねるにつれ、二人が見詰め合っていることに気付く機会が多くなっていたからだった。 シュンの視線を感じて顔をあげると、シュンが戸惑ったように視線を逸らす。 シュンを見詰めていることをシュンに気付かれ、きまりの悪さを感じて、よそ者の男が慌てて目を逸らす。 日に幾度もそんなことをしている自分たちを、ヒョウガは自覚することになった――自覚しないわけにはいかなかった――からだった。 「何か……僕、何か変ですか」 「いや……おまえがとても綺麗だから、つい。おまえこそ、なぜ俺を見る」 「あ……いえ、それはあの……ヒョウガが綺麗だから」 「シュンの方がずっと綺麗だ。その上、シュンは心根が優しい。綺麗で優しいものを見ているのは気分がいい。だから、つい目が向くんだ」 「僕は、ヒョウガにそういうふうに言ってもらえるような人間じゃありません」 そんな やりとりを、二人は毎日幾度も繰り返していた。 決定的な一言を言ってしまえば、事態は一気に解決するかもしれない。 そう思いながら――期待しながら――そうしてしまわない自分に、ヒョウガは苛立ちや もどかしさを覚えてさえいたのである。 だが、ヒョウガは なかなか その決定的な一言をシュンに言ってしまうことができなかった。 それは、自分の気持ちに自信が持てなかったからではなく、自分はシュンに好意を持たれていないのではないかという不安や気弱のせいでもなく――シュンが その心底で変化を望んでいないことを強く感じられるからだった。 シュンは、危うい均衡の上に かろうじて倒れずに立っている小さな人形のようで、プラスの方向にでもマイナスの方向にでも 少しでも力を加えられたなら、そのまま倒れて二度と起き上がることができなくなるような、奇妙な印象を その身にまとっていた。 表情はいつも優しく穏やかで、だが、いまにも光の中に消え入ってしまいそうなほど頼りない。 不用意な一言、性急な一言が、未来どころか、今こうして二人でいられる時間をも失わせてしまうかもしれない。 そんな印象――と予感。 だから、ヒョウガは、どうしても慎重にならざるを得なかったのである。 この村で為すべきことは既になく、これ以上 この村に留まっている理由は何もない。 そんな状況になってから約10日。 どうしても消え去ってくれない不安を振り払って、ヒョウガがシュンに、 「俺が捜していたのはおまえだったのかもしれない」 と告げることができたのは、 『この任務が終わった頃、あなたは私に心から感謝することになるでしょう』 というアテナの言葉をヒョウガが思い出したからだった。 ギリシャから はるばるドイツの片田舎までやってきて、ヒョウガがそこに見い出したのは、彼の仲間となる一人の聖闘士ではなく、彼の運命を決める一つの恋。 アテナはその運命を感じ取っていたのだと――二人の出会いは、二人が生まれた時から定められたものだったのだと――ヒョウガが信じずにはいられなくなったからだった。 彼の小さな菜園の傍で その一言を聞いた途端、シュンは 頬を蒼白にし、そして、瞼を伏せた。 「きっと そうなんだろうと 思っていました……」 そう告げるシュンの様子は、恋という運命に出合った人間のそれにしては全く明るくない。 シュンの瞳に喜色はなく、その表情はむしろ、恐れに支配されている者のそれだった。 だが、これまで誰かのために意地を張ることも知らずに――恋を知らずに――いた人間が、初めて恋に出合った時には、喜びや嬉しさより不安や恐れの方が先に立つものなのかもしれない。 シュンにとって、それは未知のもので、だからシュンは自分の運命の前で恐れおののいている。 少なくともシュンは、自分と同じように、二人は出会うべくして出会ったと感じてくれていた。 シュンの震える声、臆病に怯えてさえいるような言葉は、他に解しようがない。 ヒョウガが捜し求めていた相手は自分なのだと、シュンは予感してくれていたのだ――。 そう考えると、シュンが怯える様子も可愛らしいだけのものに思え、ヒョウガは我知らず その顔をほころばせることになった。 そして、ヒョウガは、自分の前に俯いて立っているシュンの首と腰に手をのばして、シュンの身体を抱きしめようとしたのである。 「え…… !? 」 それがシュンには思ってもいなかったことだったらしい。 シュンは、ヒョウガも驚くほどの素早さで、ヒョウガの――聖闘士の――手をすり抜けた。 「あ……」 一歩分 距離を置いたところで、その視界にヒョウガの姿を映し、シュンが驚いたように その瞳を見開く。 その時、ヒョウガは直感で悟ったのである。 シュンが二人の間に感じていた運命は“恋”ではなかったことに。 「そんな……そんな、まさか……」 唇を震わせて、シュンが更に一歩あとずさる。 シュンは、そして、次の瞬間には踵を返し、ヒョウガの目の中から、彼の小さな菜園の中から、逃げ去ってしまっていた。 「シュン、待て! シュン、俺と一緒にこの村を出てくれっ! 俺はおまえが好きなんだ!」 一瞬遅れて我にかえったヒョウガが、シュンの菜園を囲む野茨の小柴垣の外に出た時、村の中心に向かう道の上にも、村の外に繋がる道の上にも、既にシュンの姿はなかった。 突然 姿を消してしまったシュンに向かって叫んだ自分の声が シュンの耳に届いたのかどうかも、ヒョウガには確かめようがなかったのである。 |