「おまえが謝る必要はない。俺は知っていた」 「え?」 「あれがマーマが俺にくれたロザリオじゃないことを、俺は知っていたんだ」 「え……? あ……で……でも、そんなはず……」 『そんなはずはない』と瞬が思うのは、『知っていたなら、白鳥座の聖闘士は自分の落とし物を拾うために危地に戻ることはなかったはずだ』という考えのせいなのだろう。 氷河は、瞬のその考え方に、心臓を鷲掴みにされたような痛みを覚えた。 「あれは最初から―― 一輝の墓標に掛ける前から、傷だらけだったんだ。傷はあれをガキの頃から肌身離さず身につけていたんだぞ。聖闘士になるための修行も一緒にした。あのロザリオの傷は、修行中に俺がつけたものだ。正確には、俺がぶつかった氷の塊りや、俺がよけ損なったクマの爪がつけたもの。おまえにロザリオを返してもらった時、あんなにたくさんあった傷が一つもなくなって、すっかり綺麗になっているのを見て――少し驚いた」 「氷河……知ってた……?」 知っていたのなら なぜ、決して油断してはならない戦場で、敵に攻撃の機会を与えることになるとわかっていながら、白鳥座の聖闘士は それを取りに戻ったのか――。 瞬はそれを奇妙なことと感じているようだった。 その理由をわかっていない瞬の前で、氷河はもはや笑うしかなかったのである。 瞬がわかってくれないことをではなく、自分で自分を哀れみたくなるほどの自らの愚かさと不幸を、もはや氷河は笑い飛ばすことしかできなかった。 「そうか……あの傷が兄のせいでついたと思い込んで、おまえは新しいものを作ってくれたのか。俺はてっきり……」 なぜ白鳥座の聖闘士は、偽のロザリオを取り戻すために敵の前に戻ったのか。 瞬に その訳を察しろというのは、どうやら無理なことのようだった。 仕方なく、氷河は、その訳を、自分で瞬に教えてやったのである。 それは、氷河にしてみれば、己れの勘違いとうぬぼれを告白する行為だった。 「俺は一人でうぬぼれて――何というか、あれはおまえの……おまえが俺に気があって、俺のロザリオを自分の手許に置きたいから、同じものを作って新しいものの方を俺に返してよこしたんだと、俺は思っていたんだ」 「え……?」 「つまり……リングの交換をするようなものだと思っていた」 そう思っていたからこそ、氷河は今日 唐突とも言える告白に及ぶこともできたのである。 恋人からの贈り物を取り戻すために我が身の危険も顧みなかった無謀な男に、瞬はおそらく好意を抱いてくれているのだろうという、自信のようなものが氷河の胸中にはあったから。 だが、そうではなかったらしい。 すべては早とちりな男の うぬぼれと勘違いにすぎなかったらしい。 自分の恋は十中八九実るものと思っていただけに、氷河の落胆と失望は並み大抵のものではなかった。 「俺は、あれがおまえのくれたものだったから取りに戻ったんだ。あれは、俺には大切なものだった。おまえが俺のために作ってくれたもの──。俺は、無価値なもののために、あんな無茶で無様なことをしでかしたんじゃない」 「あ……」 「あれは、おまえが俺のために作ってくれたもの。おまえの手が触れたもの。だから、俺には大切なものだったんだ。そして、俺がガキの頃から肌身離さず身につけていたロザリオは、おまえが大切に持っていてくれるんだと思い込んで、すっかり いい気になっていた。そうか……俺のうぬぼれだったのか」 得意の絶頂から失意のどん底に落ちることには、もちろん相当のダメージがあるものだろう。 だが、人間の人生で最もダメージの大きい転落は、『もう少しで頂上に辿り着く』『もう少しで夢が叶う』と思い込み、期待と歓喜に胸を躍らせていた矢先に、目指す頂上に立つことなく、叶えたい夢に触れることができないまま、すべてを失うことである。 今の氷河が、まさにそれだった。 一度でも頂上に立ち、一度でも夢を実現できたのであれば、まだ諦めもつくというものなのに、氷河は何も――まだ何も――その手に掴めていなかったのだ――。 とはいえ、ここで 落胆と失望をあからさまにして、瞬を責めるわけにはいかない。 そう考えて、氷河は、懸命に瞬の前で笑おうとしたのである。 この滑稽、このうぬぼれ――それらは、十分に笑い話にできる愉快な不幸だった。 残念ながら、氷河が瞬のために作った笑顔は、笑顔というにはあまりにも無理のありすぎる、かなり引きつったものになってしまったのだが。 そして、そんな氷河を見詰める瞬の眼差しは、夢を掴むことなく失意のどん底に突き落とされた男のそれよりも はるかに切なげだった。 「僕……僕は、氷河に偽物のロザリオを渡してから気付いたの。氷河は、あれが綺麗なものだから大切にしてたんじゃなく、マーマの手が触れたもの、マーマがくれたものだから大切にしてたんだって。だから、本当のことを言って返そうとした。何度も、本当のことを言って返そうとしたんだ。でも言い出せなくて――」 「俺が怒るとでも思ったのか」 うぬぼれがうぬぼれにすぎなかったことに気付いた人間は、現実を見る目がシビアかつ自虐的になってしまうものである。 瞬は、瞬に恋している男の心も気質も全くわかってくれていなかったのだという自虐が、氷河にそんな言葉を吐き出させた。 不幸中の幸いというべきか、瞬は仲間に怒られることを恐れていたのではなかったようだった。 瞬が首を横に振る。 「マーマの手が触れたものだから……氷河にとって、あのロザリオは大切なものだったんでしょう? あの傷だらけのロザリオは、氷河の手が触れたものだから、僕にとって大切なものだった。氷河が肌身離さず持っていたものを、僕が持っていたかったの。あの……」 なぜ『氷河が肌身離さず持っていたものを、僕が持っていたかった』のかと、氷河はもちろん瞬に尋ねたかった。 自身のうぬぼれに気付かされたばかりでなかったら、氷河はすぐさま瞬にそう尋ねてしまっていただろう。 が、うぬぼれのせいで高くなっていた鼻をへし折られたばかりだった氷河は少々臆病になっていて、そうすることができなかったのである。 氷河は、代わりに別のことを尋ねた。 「捨てずに持っていてくれたのか……?」 「捨てるだなんて、どうして!」 「二つのロザリオの交換ではなく、ロザリオについた傷の隠蔽が目的だったなら、普通は捨てるだろう。偽物を作った証拠隠滅を図るために」 それはある視点から見れば 極めて理の通った考え方だったのだが、瞬にはそれは思いがけないことだったらしい。 瞬は、あまり力を入れずに、首を横に振った。 「たとえそうすべきだったとしても、僕には捨てることなんてできなかったよ。氷河の大切なものは、僕にとっても大切なものだもの。普段 身につけてると誰かに見られてしまうかもしれないから――僕のベッドのヘッドボードの棚にしまってある。毎晩 眠る前に取り出して、抱きしめて、お祈りしてたんだ」 声に出して語らなくても、文字にして紙に綴らなくても、耳に届き、目に見える言葉というものが、この世にはあるものである。 瞬が告げた『氷河の大切なものは、僕にとっても大切なものだもの』という言葉は、氷河の耳には、『僕の大好きな氷河の大切なものは、僕にとっても大切なものだもの』と聞こえていた。 熱を帯びて潤んだ瞬の瞳が そう告げているのが、氷河にはわかった。 『うぬぼれるな』と自身に自重を促しても、心がざわめきを止めてくれない。 氷河の心をざわめかせているものは、他ならぬ瞬の、何かを期待しているような眼差し。 そして、氷河は結局、瞬のその眼差しに抵抗しきれなかった。 うぬぼれてもいいと、瞬の瞳が言っているのだ。 氷河は、瞬の命令に従うしかなかった。 もともと氷河は、自信喪失状態でいるより、自信過剰気味の状態でいることの方が得意な男でもあったのである。 「心も持たないモノのくせして、俺より先に おまえのベッドに潜り込むとはどういう了見だ」 「え?」 「あ、いや……お祈り?」 「うん。この地上に いつか本当の平和が訪れますようにって」 「それだけか?」 「……氷河が幸せになれますように」 ためらいがちで控えめな瞬のその言葉が、巧みな誘惑以外の何だというのか。 軽い目眩いに囚われながら、氷河はその誘惑に身を委ねていったのである。 「その願いがどうすれば叶うのか、おまえは知っているか」 涙の代わりに羞恥の色を浮かべ始めている瞬の頬に右の手を当てて、氷河は低く掠れた声で尋ねた。 再接合の成った氷河の指の5本共に、瞬の頬の温もりが伝わってくる。 否、それは むしろ熱かった。 「あの……なんとなく」 「なら、逃げないでくれ」 言い終える前に瞬を抱きしめる。 瞬は、氷河の腕から逃げなかった。 代わりに、恐る恐るといった 「氷河、怒ってないの?」 「俺は、好きな相手は怒れない。俺は、そういう ご立派な真似のできない軟弱な男なんだ。幻滅したか」 氷河の胸に頬を押しつけたまま、瞬は首を横に振った。 「氷河は好きな相手を怒れないんじゃなくて、怒れないから好きなんだと思う。氷河が誰かにほんとに腹を立ててる時、氷河はもう その人を好きじゃないの。氷河は軟弱なんじゃなくて、恐いくらい、残酷なくらい、好悪がはっきりしてるんだよ」 「それだけ俺をわかってくれているのなら、俺がどんなにおまえを好きでいるのかも わかってくれているな?」 「あ……」 瞬は、氷河という男の性質の概括を語っているだけで、それを自分に当てはめて考えてはいなかったらしい。 『俺がどんなにおまえを好きでいるのか』を理解した途端に 瞬は頬を染め、氷河の胸の中で恥ずかしそうに身体を縮こまらせた。 こんな瞬だから 自分は瞬を好きになったし、自分は瞬を怒れるような“ご立派な男”には一生なれないだろう──と、氷河は思ったのである。 瞬は、時に、愚かなほど健気で一途だが、無知でもなければ愚鈍でもない。 瞬はただ、うぬぼれるということができない人間なのだ。 その瞬をついに手に入れた。 夢が叶った氷河の歓喜は尋常のものではなく、瞬と違って うぬぼれる術を心得ている氷河は、すぐに自分を世界一幸福な男だと確信することになったのである。 「俺は、おまえがくれたロザリオには、地上の平和そっちのけで、いつかこんなふうにおまえを抱きしめられる日がくるようにと祈っていたんだ。さすがに、おまえのロザリオは霊験あらたかだ」 「氷河のマーマのロザリオに祈った僕の祈りは叶ったの?」 「地上の平和はどうか知らないが、もう一つの方は確実に」 「それが本当なら嬉しい」 望みを叶えてくれたのは、ロザリオではなく“人”だということはわかっていた。 氷河も瞬もわかっていたし、本当は誰もが そうであることを知っている。 知っていながら、人は心を持たない“もの”に祈り続けるのだ。 愛する者が遺したもの。 愛する人に贈られたもの。 心を持たないそれらの Fin.
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