「婚活講座の講師ーっ !? 何だよ、それ!」 「沙織さん……何を考えているんですか……」 グラード財団総帥にして、聖域と聖域に属する すべての聖闘士を統べ導く女神アテナ。 彼女の奇抜な発想と、常人とは異なる視点、既成概念に囚われることなく、むしろ既成概念を破壊することを目指しているような 彼女の奇矯な思考言動に、青銅聖闘士たちは かなり慣れているつもりだった。 彼女の無責任な思いつきに散々振りまわされ、そのせいで時に命の危機に瀕したこともある彼等は、彼等の女神が何をしようと自分たちは もはや滅多なことでは驚けないだろうという、悲しい自負をさえ その胸に抱いていたのである。 彼女の今回の思いつきが、聖域を世界遺産に登録すべくユネスコに申請を出したとか、アテナ神殿を50階建てのテナントビルに建て替えて、そのビルの1階にマクドナルドとケンタッキー・フライドチキンの店舗を入れるつもりだとか、そういったことであったなら、星矢も紫龍もここまで驚くことはしなかったのである。 彼女がぶちあげた計画がそういう類のものであったなら、彼等はむしろ、彼女がこれまで聖域の広大な敷地を(主に経済面で)有効利用していなかったことにこそ、驚きを覚えていたかもしれなかった。 だというのに、なぜ彼女の発想は いつもいつも青銅聖闘士たちの想像の はるか上空をいくのか。 常人の百倍も強力頑丈な三半規管を備えているはずの星矢と紫龍は、今 激しい目眩いに襲われていた。 もちろん、沙織が、我が身の権力と権威をかさにきて、聖闘士たちを いいようにこき使ったことは これまでに幾度もあった。 彼女にこき使われることに 青銅聖闘士たちはすっかり慣れてしまい、彼女の奇天烈な発想と実行力に、彼等は悲しいほど強い耐性を身につけてしまってもいた。 しかし、今度ばかりは、その青銅聖闘士たちも、 『まあ、沙織さんの考えることだから』 と笑って済ませるわけにはいかなかったのである。 なにしろ、沙織は、グラード財団内の独身男のための婚活講座開催を決定し、瞬にその講座の講師を務めてもらうつもりだと言い出したのだから。 瞬を、である。 日本国の法律では まだ婚姻する資格さえ有しておらず、それどころか まともに恋をしたこともないのではないかと思われる瞬に、婚活講座の講師をさせるつもりだと、彼女は言い出したのだ。 瞬は事前に何も聞かされていなかったらしく、突然自分に割り振られた役目に驚き、ぽかんとしている。 氷河に至っては、驚愕や怒りを言葉にすることもできなかったのか、氷雪の聖闘士にはおよそ似つかわしくない、沸騰寸前のヤカンが生み出す蒸気のような熱い小宇宙で その身を包み始めていた。 そんな青銅聖闘士たちに、アテナが、実に見事な職人芸を見せつけてくる。 すなわち、彼女は、まさに至高の職人技と言うしかない超絶技巧で 慈愛と威厳に満ちた微笑を作り、彼女の内にある人の悪さを完璧に隠しきってみせたのだった。 「何を考えているのかって……私が考えているのは、いつだって世界の平和と安寧を実現するにはどうしたらいいのかということよ」 「それだけではないでしょう」 「あと、日本国の未来」 「それから?」 「そろそろ 次世代育成支援対策推進法で定められた次世代育成支援対策推進のための行動計画報告書の提出締め切りが近付いてるなあ……って」 「……」 とぼけた様子で真の目的を語り始めた沙織に、紫龍が思いきり呆れた顔になる。 星矢が沙織に呆れ顔を向けず、非難の言葉を口にすることもしなかったのは、彼が『ジセダイイクセイシエンタイサクスイシンホウでサダメられたジセダイイクセイシエンタイサクスイシンのためのコウドウケイカクホウコクショのテイシュツシメキリ』が何であるのかを、そもそも理解できていなかったからだった。 「なんだよ、その次世代育毛支援って」 「育毛ではなく育成だ。要するに、少子化対策だ。確か、301人以上の労働者を雇用する事業主に子育て支援のための計画書提出が義務づけられていたはず……」 「そう。つまり、私にね」 グラード財団総帥が、またしても にっこりと見事な笑みを、彼女の聖闘士たちに向けてくる。 事情を理解した星矢は、それで騙されるのは彼女にこき使われたことのない幸せな一般市民だけだと、腹の中で軽く毒づくことをしたのである。 「それと瞬と どう関係があるんだよ」 当然 星矢は、にこりともせずに沙織を問い質したのだが、沙織は彼女の聖闘士たちの不審顔など どこ吹く風で――むしろ、その質問を待っていたと言わんばかりの勢いで、子育て支援と瞬の“関係”をまくしたててきたのだった。 「あの法律が施行されてからこっち、我がグラード財団関連企業では、男女共に育児休業の枠を広げ、保育施設を設置し、勤務時間の短縮を図り、育児時間の請求ができるシステムを作り――企業として できることは、もう ほとんどしたのよ。でも、その成果は全く芳しくなくて、笛吹けど踊らず状態。財団としては、特に男性の育児休業取得の実績を労働局に報告したかったのに、今のところ、その報告はゼロ。ゼロよ、ゼロ。ほんと、ありえないことだわ。要するに、独身男が多すぎるのよ、我がグラード財団内には! 子育て支援以前の問題よ!」 「だから、もっと根本的解決を図ることを考えたというわけですか。それで、子育て前の婚活支援?」 「給与もいい、頭もいい、見た目だって悪くはない、でもなぜか結婚していない――という30男40男が、グラード財団には腐るほどいるの。彼等をどうにかしなければ、我が財団がどれほど子育て支援のための環境を整えても成果は望めないわ。つまり、立派な計画書は提出できても、立派な実績報告書は提出できない。これは、今後の財団の雇用計画にも関わってくる大問題なのよ。各種社会貢献活動で優良企業とされている我が財団が、少子化対策でだけ他企業に後れをとっているなんて、お上の印象も悪くなるし、優秀な人材の確保にも支障をきたすわ!」 一気呵成にまくしたてる沙織の前で、正直なところ、星矢たちは、戦いを 彼等があえて その疑念を言葉にせずにいたのは、彼女の主張が このあと どういう経路を辿って『瞬=婚活講座の講師』という結論に行き着くのかを知りたいという、言ってみれば好奇心のゆえだった。 そんな青銅聖闘士の心を知ってか知らずか、沙織が彼女の理論の展開を続ける。 「アンケートをとって、その分野の専門家に分析してもらったところ、彼等に欠けているものは経済力でも時間でも意欲でも出会いでもなく、出会いを 具体的な交際や結婚に発展させる自信だということが判明したの」 「自信?」 「ええ、そう、自信。自分が女性に好かれる男だという自信がないから、彼等は異性に対して積極的に出ることができないのよ。これは男性に限ったことではないでしょうけど、人間の自信というものは、お金と頭だけで養われるものではないのね。へたに頭がいいものだから、我が財団の幹部候補たちは、根拠のない自信を持つほどの馬鹿にもなれないらしくて」 そう言ってから、沙織は、『中途半端に分別がある人間がいちばんタチが悪いわ』と、少々苛立たしげな声で低くぼやいた。 「そこで、私は、婚活講座の開催を考えたの。婚活講座と銘打つと、そんな浅ましいものに出席できるかと考えるような馬鹿げたプライドの持ち主たちばかりだから、講座の名目は護身術講座ということにするつもりよ。きびきびした動作やスマートな身のこなしを身につけることは、人に好印象を与えるのに役立つし、ビジネス上でも有益だからとかなんとか こじつけて」 「まあ、講座で教える内容が女性の口説き方でなく護身術なら、瞬にもできないことはないでしょうが、しかしですね――」 できる限りの譲歩をしても、紫龍に言えるのはそこまでだった。 最初から譲歩するつもりのない氷河が、紫龍の言を遮って室内に怒声を響かせる。 「そんな独身男が うようよいるところに瞬を放り込むなんて、オオカミの群の中に子羊を放り込むようなものだ! そんな危険なことを瞬にさせられるかっ!」 怒りで理性を失っているような氷河の大声を、その訳を、星矢とて全く理解できなかったわけではないし、同感できる部分がないわけでもなかったのである。 だが、星矢は、怒り心頭に発している氷河の怒声に溜め息をつかずにいることができなかった。 「突っ込みポイントはそこじゃないだろ……」 「うむ。この場合、いちばんのネックは、結婚したことのない瞬が結婚に関わることの指導をするということで――」 紫龍たちが理屈で沙織の計画を断念させようと努めている時に、氷河はあくまでも どこまでも感情的だった。 星矢たちの声がまるで聞こえていないように、氷河が、殺気だった猛獣の咆哮のような声をあげ続ける。 「飢えたオオカミ共が鵜の目鷹の目で獲物を捜しているところに、瞬みたいに隙だらけでガードの甘い羊が ちょこちょこ紛れ込んでいってみろ。5分経たないうちに、瞬はオオカミの毒牙にかかるに決まっている!」 「ガードが甘いって……」 鉄壁の防御力を誇るアンドロメダ座の聖闘士に、氷河は言いたい放題である。 さすがの瞬も、それ以上黙っていることはできなかったらしく、彼は氷河の決めつけにささやかな反駁を試み始めた。 「氷河の心配はちょっと変だよ。僕は男だし、聖闘士だし――」 「だから安全だと言い張るつもりか! おまえは男だし聖闘士だが、俺はおまえに――」 人間は――たとえ それが氷河でも――“猛獣のように”なることはできても、猛獣そのものになることはできないもののようだった。 その証拠に、怒りで理性を失いかけていたはずの氷河が、『(おまえは男だし聖闘士だが、俺はおまえに)惚れているぞ』と怒鳴りかけた声を慌てて喉の奥に押しやることができてしまったのだから。 こんな馬鹿げた状況で、自分の一生を左右することになるかもしれない恋の告白などできるものではないと判断できる程度の理性は、怒りに我を忘れていた氷河の中にも(かろうじて)残っていたものらしい。 その結果、反駁の論拠を口にできなくなった氷河が、むっとして唇を引き結ぶ。 そんな氷河を意味深長な目で一瞥してから、沙織は独り言のような溜め息、あるいは、溜め息のような独り言を洩らすことになった。 「男性の自信ってどこから生まれるものなのかしらね。我が財団が誇るエリート幹部候補社員たちが 女性には軒並み消極的で――」 「それはやはり経験と実績が養うものでしょう」 「自信を持つ方法というのなら、瞬より俺の方がよほど心得ているし、長けている。その婚活講座の講師、瞬ではなく俺にやらせろ!」 氷河が突然、瞬に代わって自分が火中の栗を拾う決意を表明する。 とにかく瞬をオオカミの群の中に放り込むようなことはしたくないという氷河の意思は、我が身が火の粉をかぶることも厭わないほど強いものだった――ということになるだろう。 自信の持ち合わせなら、瞬より自分の方がはるかに多いと、氷河は思っていた。 自信というものは、確かに 紫龍の言う通り、経験と実績が養うものだろう。 瞬は、聖闘士としては、おおむね氷河と同程度、もしくは それ以上の経験と実績を積んできていたが、だからといって、瞬が氷河と同レベルの自信家かというと決してそうではない。 何といっても、瞬は、これまで自分が為してきたことを“実績”と思っていないのだ。 瞬が自分の為したことを実績と思い、自信を持つことができるようになるのは、『世界の平和と安寧』という彼の理想と戦いの目的が実現した時だけだろう。 目的が達成されていないのに、それまでの“努力”を実績と考えることはできない――そう考えるのが瞬だった。 つまり、邪神を一柱 倒した程度のことは、瞬にとっては“実績”の一つにも数えられないのである。 それは、理想家の負う不幸にして幸運と言えるだろう。 瞬はいつまで経っても自信家になることはできないが、いつまででも自分の理想を追っていられるのだ。 そんな瞬とは対照的に、氷河は、一つ一つの戦いで着実に自信を貯め込んでいくタイプだった。 氷河の自信は理想の実現によってではなく、日々の戦い・個々の戦いでの勝利によって培われるものだったのである。 氷河の健気な(?)覚悟と捨て身の決意を、しかし、沙織は実にあっさり却下した。 「氷河は駄目よ。『どうすれば自信を持てるようになるのか』と訊かれた時に、『なぜ自信を持てないんだ』なんて答えるような講師じゃ話にならないわ。その点、瞬は、人の美点を見付けて褒めてあげるのが得意だし、見た目が女の子――いえ、優しい印象だから、女性に接し慣れていない男性陣に場慣れさせるのにも適任だと思うの。瞬は、彼等の苦手意識克服には最適の人材よ」 「ひどい話だ。瞬は、女性に不慣れな男共を女性に慣れさせるための人柱ですか」 「何を言うの! これは、我が財団だけでなく、日本の危機、世界の危機なのよ。最高の人材を投入して真摯に事に当たらなければならないことなのよ!」 渋面を作った紫龍の目の前で、沙織が日章旗と国連旗を振りかざす。 「人工調整問題は先進国にも発展途上国にも等しく課せられた問題で、解決しなければ人類そのものを滅ぼしかねない大問題。アテナの聖闘士が世界と人類の存続のために尽力するのは当然の義務でしょう」 “世界と人類の存続”は、アテナの聖闘士には決して逆らうことのできない錦の御旗である。 一企業の問題を 鮮やかに地球全体の問題にすり替えて、沙織は彼女の聖闘士たちの反駁を封じてしまったのだった。 「まあ、一度だけ試してみて、それでうまくいかなかったら、別の手を考えるわ。とにかく、今は、少子化対策のために財団経営陣が何かをしたという実績が必要なの。それで私も報告書を書いて労働局に提出できるようになるから」 瞬が婚活講座の講師を務めることは、既に沙織の中で覆すことのできない決定事項になっているようだった。 例の微笑を浮かべて、結論(=命令)を下す沙織に、青銅聖闘士たちは、 「その婚活講座の見学は許されるんでしょうね」 と尋ねるのが精一杯だったのである。 沙織は、過酷な命令を下す時同様、にこやかな笑顔を作り、彼女の聖闘士たちに頷いてみせた。 「それくらいのことは許してあげるわ。名目は婚活講座じゃなくて護身術講座だから、バトルの専門家である あなたたち見学してもらって、何か意見があったら ぜひ聞きたいし。ああ、瞬。昨日、護身術の指導員資格の認定証が届いたわよ。国家資格でも何でもない民間団体発行の資格だけど、試験勉強もせずに受験して、筆記試験実技試験共トップ合格というのは とても立派よ。大変よくできました」 「あれが、こんなことのためだったなんて……」 ろくな説明も受けずに受験するように言われて受けた試験の結果を突然 知らされた瞬が、沙織の事後報告に呆然とする。 否、瞬が呆然とすることになったのは、護身術指導員資格試験の結果を知らされたせいではなく、今になって知らされた資格試験の受験目的のせいだったろう。 要するに、婚活講座の講師を務める瞬当人の知らないところで、すべてのお膳立ては整えられていたのだ。 「第一回目の婚活講座は、明日、グラード財団本部ビル30階の大会議室30Aで、15時開始、17時終了予定。あまり濃くない色のスーツを着てきてちょうだい。受付には話を通してあります。とりあえず、幹部候補で独身のエリートを30人ほどセレクトしてみたわ。よろしくね」 ぽんぽんと調子よく、決定事項だけを知らせてくる沙織に、瞬はもはや 言葉もなく頷くことしかできなかったのである。 |