星矢も紫龍も、そして自分も、地名を言われれば『ああ、あの辺りか』と察しがつく場所に送り込まれることになった。 だというのに、なぜ あの兄弟だけは、誰も知らない場所にある、誰も聞いたことのない名を冠する島などに送られることになるのか。 氷河はそれが不思議でならなかったのである。 正しい人生と正しくない人生。 普通の人生と普通でない人生。 明るい人生と明るさのない人生。 苦しみばかりの人生と苦しみのない人生。 たとえば 人の人生が、そんなふうな二者択一の連続だったとしたら、自分が選らばされ、歩むことを余儀なくされる道は、いつも あの二人とは異なる道であるような気がする。 いつもあの兄弟とは違う道を行くことを強いられているような気がする。 そう思えてしまうことが、氷河を苛立たせていた。 Aという道とBという道の、どちらが より幸福な道で、どちらが より恵まれた道なのかということは、この際 問題ではない。 自分が歩んでいかなければならない道が、いつも瞬のそれとは違う属性を持つ道、瞬のそれとは種類の異なる道だということが 問題なのである。 瞬とは違う道、瞬とは違う方向、瞬とは違うグループに分けられてしまうことが。 たとえばそれが不運な道で、損ばかりする道で、苦難ばかりが襲ってくる道だったとしても、共に歩む者が瞬であるならば、どんな不運や苦難も 自分は楽しく喜ばしく感じることもできるだろう。 だというのに、自分には、その 楽しく喜ばしい不運や苦難は与えられない。 それは、いつも瞬の兄のものになる。 そして、自分は瞬から分かたれた道を行かなければならない。 それは、修行地の属性に限ったことではなかった。 日本に生まれたか生まれなかったか、母の記憶があるかないか、兄弟がいるかいないか。 そんな人生の根幹に関わることはもちろん、ピーマンが好きか嫌いか、隠れんぼが好きか鬼ごっこが好きか というような、何ということのない嗜好の次元でですら、瞬と自分はいつも違う場所に立つ。 それが、氷河を苛立たせるのだった。 氷河は、そんな自分と瞬を、日本に来て知った子供の遊びの中にいるようだと思うことがあった。 子供たちは二つのグループに別れて、もう一方のグループにいる“あの子”を自分のグループの一員にしようとする。 『あの子が欲しい』 『あの子じゃわからん』 『この子がほしい』 『この子じゃわからん』 そんなやりとりを繰り返し、やっと“あの子”と同じグループになれたと思った次の瞬間、自分は“この子”になって、“あの子”とは別のグループに移動しなければならなくなる。 これまでの氷河と瞬は いつもそうだったのだ。 それでも これまでは、そんな人生の皮肉のような すれ違いに苛立ち 腹を立てるだけで済んできたのである。 二人は質的に違う場所にいても、物理的には同じ場所にいることができていたから。 だが、今度ばかりは立腹だけでは済まない。 今日の花いちもんめには、二人の命と人生がかかっていた――もしかしたら“永遠”になるかもしれない別れがかかっていた――のだ。 自分自身も兄が送られる場所と大差ない、厳しい自然環境下にある絶海の孤島に送られることを知らされても、瞬は明日からの我が身を案じているようには見えなかった。 瞬は、おそらく 兄の身だけを案じていた。 兄は自分のせいで 地獄のような島に送られることになってしまったのだと、瞬は自分を責めずにいられないのだろう。 瞬は、あらゆる場面で 他人や社会を責めるより、自分を責める傾向の強い子供だった。――氷河とは違って。 当然 瞬は責任感や義務感に強く支配される子供でもあった。――氷河と違って。 兄の身ばかりを案じている瞬の心が、兄弟の情によるものでもなければ、優しさによるものでもないことに、氷河は気付いていた。 否、それは確かに兄弟の情であり、瞬の優しさゆえのものではあるのだろうが、それだけではない。 瞬は、自分が生きて故国に帰ってくることを諦めている。 だから、瞬は、兄の身ばかりを――自分ではない者の心配ばかりをしているのだ。 “心配”という行為は、希望を持てる人間や事象に対して行なう行為で、絶望の中にある人間や事象に対して行なう行為ではない。 瞬は自分の命にも将来にも絶望しているから――完全に諦めているから――我が身を心配していないのだ。 氷河は、そんな瞬が苛立たしく、腹が立って仕方がなかった。 そういう心を瞬に強いる運命が 憎くて仕方がなかった。 そして、それ以上に、そんな瞬に何もしてやることのできない自分の無力が、氷河は悔しくてならなかったのである。 小さくて、大人しく、気弱な瞬。 優しくて、温かくて、やわらかな瞬。 人生の理不尽に、泣くことでしか抵抗できない瞬。 城戸邸に集められた子供たちは、その大半が、それ以前にいた養護施設では 比較的頑健な身体を持ち、他の子供たちに比べれば腕白で攻撃的なところのある子供たちだった。 彼等が城戸邸に連れてこられた目的を考えれば、それも道理なことだったが。 その腕白な子供たちの中で、瞬は特異な存在だった。 瞬は健康ではあったが頑健ではなく、運動能力自体は優れていたが、その力を攻撃ではなく防御に用いようとする。 そして、人生の苦難に抗おうとはせず、耐えようとする。 それが瞬だった。 その瞬が、今は何かに耐えようとする気力さえ失ってしまっているのだ。 生きる希望をなくしているような瞬に、どうすれば力と希望を取り戻させてやることができるのか。 せめて耐えようとする力だけでも取り戻させてやりたい――。 氷河は、そう思ったのである。 とても強く、そう思った。 生きる力と希望を失い、自らの生と未来に絶望している瞬と このまま別れて、もし再び出会うことが叶わなかったなら、自分が この別離を一生後悔することが、氷河にはわかっていた。 たとえ己れ自身は与えられた試練に打ち克ち、聖闘士というものになれたとしても、瞬が生きて帰ってきてくれなかったなら、自分が一生消えることのない悔いを心の中に抱え込むことになるだろうことを、氷河は確信していた。 非力で小さな仲間を救ってやれなかったこと。 救ってやれないほど、自分もまた無力であったこと。 自分が もし勝利者に分類される人間になり得たとしても――そうであれば、なおさら――自分がたった一人の仲間を救うこともできない無力な存在であった事実は、消えない汚点、忘れられない屈辱として、いつまでもその記憶の中に居坐り続けるのだ――。 明日には 生まれ育った故国からも、共に試練の日々を過ごしてきた仲間たちからも数千キロの距離を隔てた場所に行かなければならない瞬の側に、力を持たないということがどういうことなのか、その意味を噛みしめながら、氷河は歩み寄っていったのである。 これまでも、瞬に押しつけられる道、瞬に降りかかる理不尽が悔しくて、氷河は瞬の前ではいつも苦虫を噛み潰したような顔をしていることが多かった。 明日には永遠の別れを余儀なくされることになるのかもしれない瞬のために、だが、氷河は今日も同じ顔しか作ってやれなかった。 というより、氷河は、今の自分が 瞬を力づけるためには笑えばいいのか、あるいは むしろ泣いてしまった方がいいのかということすら わからなかったのである。 いっそ顔を見られる前に有無を言わさず瞬を抱きしめてしまったらどうだろう。 瞬は、仲間に抱きしめられることで、少しは力づけられてくれるだろうか――? そんなことを思い悩みながら、氷河は瞬の側に近付いていったのである。 音を立てないように細心の注意を払いながら。 今の瞬は、氷河の目に、庭の小石がはぜる小さな音ひとつにも怯える小動物のように見えていたから。 兄の顔を見ると泣いてしまうのだろう。 瞬は城戸邸の庭のベンチで、花壇に植えられた豪華な花ではなく、敷石の隙間で 一つだけ白い小さな花を覗かせている野草の姿をじっと見詰めていた。 すぐそこに氷河の影があることに気付くと、緩慢な動作で顔をあげる。 なぜそこに氷河がいるのかと一瞬 訝ったようだったが、まもなく瞬は──自分の命に絶望しているはずの瞬は──仲間に笑顔を向けてきた。 ひどく切なげな色の瞳と ひどく悲しげな眼差しでできた笑顔を。 「昼間は乾いた砂漠みたいに暑くて、夜は1年を通して気温が氷点下にまで下がる島なんだって。そんな島でも花は咲くことができるのかな……」 花が咲ける島なのかどうかを、瞬が案じているのは、瞬が送られることになっているアンドロメダ島のことではなく、瞬の兄が送られることになるデスクイーン島のことである。 それがわかるから、氷河は、『少しは自分の心配をしろ』と、『一輝もおまえにだけは心配されたくはないだろう』と、瞬を怒鳴りつけたくなってしまった。 それでなくても既に潤んでしまっている瞬の瞳を 涙で溺れさせることになるのが わかっているから、氷河にはそうすることはできなかったのだが。 「氷河はマーマのいるところに行くの」 かろうじて潤むだけで済んでいる瞳に仲間の姿を映して、瞬が尋ねてくる。 瞬は、 また、二人は違う場所に立つ。 その事実が悔しくて、氷河は奥歯を噛みしめた。 まるで胸のロザリオが焼けているような痛みを覚えた氷河は、その痛みによって、ふと あることを思いついたのである。 瞬の命をこの地上に繋ぎとめ、瞬の心を別れゆく仲間に結びつけておくための ある方法を。 それは、人に迷惑をかけることを厭う瞬の性格を利用すること――だった。 |