「夕べは あの夢を見なかったの。信じられないほど ぐっすり眠れた」
氷河が夢から目覚めると、そこで氷河を待っていてくれたのは純白の悪魔――つまりは、“素直で可愛い”瞬の嬉しそうな笑顔だった。
まさか ここで、『夢を見る力も失われるほど、俺がおまえを疲労困憊させてやったから』と得意げに言うことはできない。
「そうか。それはよかった」
軽い笑みと共に 短く そう言って、氷河は瞬の裸の肩を抱き寄せた。
恥ずかしそうに瞼を伏せた瞬が、氷河の胸の中で小さく呟く。

「あの夢……」
「ん?」
「あの夢は、もしかしたら、神でも悪魔でもなく、本当は僕自身の何かだったのかも。氷河を好きでいることを氷河に言えずにいることに僕自身が焦れて、僕の その気持ちが あんなものを作ってしまったのかもしれない。だから、氷河と……あの……こんなふうに仲良くなれたから、それで満足して、あの夢も消えてしまっただけなのかも……」

馬鹿馬鹿しいほど可愛いことを真顔で言う瞬に、氷河はどう答えたものか、しばし迷ってしまったのである。
責任感が強く 内罰的傾向の強い瞬らしい考え方だとは思ったが、それはありえないことだった。
豊かな想像力に恵まれた人間なら、ああいうものを作り出すことは確かに可能かもしれない。
だが、それを他人の夢の中にまで送り込むことは、人間には不可能なこと。
あれは誰かの心が作ったものではなく、瞬の心からも氷河の心からも独立して存在する“何か”だった。

しかし、今 “恐い夢”から解放されて 心を安んじさせている瞬に、そんな事実を指摘してみせるのは全く意味のないこと――意味がないどころか有害なことである。
氷河は、瞬のその考えをはっきりと否定せずにおくことにした。
「あれはおまえの欲求不満を具現したものだったというのか」
「え……? あ……それは……」
切ない片恋を“欲求不満”などという言葉で置き換えることを、そんなことができるということを、瞬は考えたこともなかったらしい。
かといって、昨夜の自分の惑乱を思えば、氷河の言葉を正面から否定することもできなかったのだろう。
瞬は、困ったように眉根を寄せた。

「もしそうだったのだとしたら、これからおまえは満たされっぱなしになるから、おまえはもう あの夢を見ることはなくなる」
「あ……そ……そうなるの?」
「なるだろう。恋が実るというのは いいことだな。いい気分だ」
「……うん。いい気分だね」
どうやら瞬は“欲求不満”なる表現への反論を諦めてくれたらしい。
氷河の提示した結論に賛意を示し、瞬は氷河の胸に頬を押しつけてきた。
この“素直で可愛い”瞬を、それが神でも悪魔でも、自分以外の誰かの手に渡すことは絶対にできないと、氷河は思ったのである。

そして、氷河は、幸いなことに 瞬を あの闇のものにしないための非常に有効な手立てを知っていた。
つまり、それは約束で瞬を縛ること――である。
「もし、いつかまた あの夢を見ることがあったら、すぐに俺に知らせろ。それは俺がおまえを満足させてやれていないということで、俺のプライドと俺たちの幸福にかかわる大問題だからな」
「そんなことは――」
「約束だぞ。あんな夢に囚われることは、おまえには許されない。約束だ」
「……うん」
氷河の口調が軽快なものでなくなったことを感じとったらしい瞬が、その瞳から羞恥と当惑を消し去り、真剣な眼差しで氷河との約束に頷いてくる。

責任感の強い瞬は、命をかけても 交わされた約束を守るだろう。
瞬がその約束を守ることを、氷河は確信していた。
いつか再び あの悪夢が瞬の前に立ち現れても、瞬はあの闇のものにはならない。
約束を守るために、瞬は あの闇に懸命に抗い、あの闇と戦うことさえするだろう。
瞬にとって、約束とは必ず守られなければならないもので、今 瞬はその約束を恋人と交わしたのだから。

恋の約束は必ず守られるべきものではない。
事実それは世間では、破られることの方が多い約束である。
氷河も、永遠の愛の約束などを瞬に強いるつもりはなかった。
だが、瞬は、決して あの闇のものにはならない。
氷河は、それだけは確信していた。






Fin.






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