氷河に上体を抱き起こされた状態で、一度 唇を強く引き結んでから、勇気を出して、瞬は氷河の頬に手をのばしていった。
そして、蚊が鳴くように小さな声で、氷河に真実を告げる。
「あの時……僕が氷河の前から逃げようとしたのは、氷河に好きって言われたことを 馬鹿みたいに喜んでいる自分が恥ずかしかったからだよ」
「なに……?」
「氷河だって嫌でしょう。好きだって言った相手が、突然 目の前で 浮かれて宙返りなんか始めたら。そんなの見せられたら、氷河だって、百年の恋も冷めちゃうだろうって思って、だから僕――」

瞬の姿を映している氷河の青い瞳が、大きく見開かれる。
振り払ったはずの羞恥が僅かに蘇ってきて、瞬は氷河の腕に抱きかかえられている自分の身体と肩を小さく丸めた。
「ちゅ……宙返りをしたくなるほど嬉しかったのか」
「うん……」
「してしまえばよかったのに。そうすれば、変な転び方をして記憶を失うこともなかった」
「……ほんとだね」
今なら、瞬にも そう思うことができた。
だが、あの時は、そんなことをしたら 自分は氷河に呆れられてしまうに違いないという妙な確信と自制心が、瞬を強く支配していたのだ。

「僕、でも、あの時は、氷河は、氷河のマーマみたいに優しくて楚々とした人が好きなんだろうなって思ってたから、氷河に幻滅されるようなことはしたくなかったんだ」
「俺は、おまえの優しくて可愛くて、人の命を守るために自分の命をかけることのできる強さを好きになったんだ。おまえが宙返りをしても、ダブルマックツイストを決めても、全く無問題だ」
「うん……。氷河の前だからって、カッコつけようなんて思わなければよかった。そうしたら、僕、こんな変な回り道をせずに、氷河と――」

“こんな変な回り道をせずに氷河と”――どうしていたのか。
瞬はどうしたかったのか、何をしていたのか。
その先をはっきり言葉にしないまま 恥ずかしそうに瞼を伏せてしまった瞬の様子に、氷河は あらぬ期待と妄想を炸裂させて、くらくらと激しい目眩いに襲われることになったのである。
「ち……地球が揺れているような気がする。踊りだしたい気分だ」

「阿呆な踊りを踊っても幻滅しないと瞬が約束してくれても、それはやめておいた方がいい」
紫龍の助言は適切なものだったろうが、
「おまえら、いつまで人前で いちゃついてるんだよ。そういうことは、俺たちのいないところで こっそりやるのが礼儀ってもんだろ!」
星矢の叱責は、これまで散々 盗み見と盗み聞きを繰り返してきた人間が 偉そうに言っていいものではなかっただろう。
しかも、星矢は、彼には言う権利のない叱責を口にしながら、氷河の肩を威勢よく殴りつけることをしたのである。
数々の試練を乗り越えて めでたく恋が成就した仲間を祝福すべく、楽しげに、だが、聖闘士の力で。

星矢によって加えられた力に あえて逆らうことをせず、氷河がその場に仰向けに倒れたのは、彼が踊り出したいほど浮かれ、地球が揺れていたせいもあったかもしれないが、瞬を抱きかかえたままの状態でへたに倒れまいとするよりは、その力に従って素直に倒れてしまった方が 瞬の身体を守ることになると判断したからでもあったろう。
その判断は、おそらく正しいものだった。
仰向けに倒れた氷河の頭部の行く手に、花壇と園路と隔てる御影石の土止めさえなければ。

氷河の後頭部が その石にぶつかる鈍い音が、瞬と瞬の仲間たちの耳には はっきりと聞こえた。
「氷河! 氷河っ!」
どう見ても完璧な脳震盪を起こして意識を失っている氷河の名を、瞬が悲鳴じみた声で呼ぶ。
沙織は、せっかく迎えようとしていた大団円を 不吉な鈍い音でぶち壊しにしてくれた星矢を、大きな声で叱責した。
「星矢! あなたは手加減というものを知らないの!」
「俺はちょっと軽く小突いただけのつもりで……。俺だって、手加減って言葉くらいは知ってるけど、氷河に手加減することなんか考えないだろ、普通! 氷河は仮にも聖闘士なんだぜ。ちょっと ど突かれたくらいで、こんなにあっさりひっくり返るなんて――」

現に、仮にも聖闘士の氷河が“ちょっと ど突かれたくらいで、こんなにあっさりひっくり返”ってしまったのだから、星矢の言い訳は あまり意味のあるものではなかっただろう。
せっかく迎えようとしていた大団円を、些細なトラブルで台無しにすることもあるまいと考えたのか、紫龍が二人の間の執り成しにかかる。
「まあ、星矢にも悪気があったわけではないんですし、そう目くじらをたてることもないでしょう。今の氷河が 瞬を残して死ぬことはないでしょうし」
紫龍の予測は的確で、瞬が再度 氷河の名を叫ぶ前に、氷河は ぱちりと目を開けた。
瞬が ほっと安堵したのも束の間、意識を取り戻した氷河が奇妙なことを言い出す。

それは実に奇妙なことだった。
彼は、のろのろと倒れていた上体を起こし、
「ここはどこだ」
と、ぼんやりした声で 呟くように言ったのだ。

「おい。あんまり笑えないから、今だけは、そういう使い古されたギャグはやめとけって」
「ギャグ? ギャグとは何だ?」
それこそギャグとしか言いようのない言葉で 星矢に問い返す氷河の視線が、まるで見知らぬ他人を見る人間のそれであることに気付いて、氷河の仲間たちは ふいに、非常に嫌な予感に襲われることになったのである。
彼等の嫌な予感を確信に変えたのは、泣きそうな目で氷河の顔を見詰めている瞬を見て、氷河が呟いた、
「すげ……可愛い……。俺のタイプ」
という言葉だった。

それは、彼が完全に自分の立場を忘れてしまったからこそ発せられる言葉。
つい数分前 瞬と互いの気持ちを確認し合ったばかりだという記憶が失われているからこそ、氷河にも言える言葉だった。
しかも、口調が7、8歳の頃のそれである。
氷河の仲間たちは、その事実を認めて、真っ青になってしまったのである。
これは、どう考えてもそう・・だった。
それ以外に考えられない。
すなわち、今度は 氷河の方が、嬉しさのあまり(?)彼の恋人とその周辺の記憶を数年間分 失ってしまったのだ。

「まあ……氷河ったら……。氷河ったら、なんて面白い真似をしてくれるの! さすが、私の聖闘士たちは 私を退屈させてくれないわね!」
嫌な予感が現実のものとなり、生の難さを実感し始めた青銅聖闘士たちとは対照的に、ひとり 沙織だけが元気である。

生は難く、死は易し。
困難にばかり巡り会うからこそ、生きることには価値がある――と、彼女は考えているのかもしれなかった。
蒼白の青銅聖闘士たちを 一度 ぐるりと見回してから、彼等の女神は、無責任といっていいほど弾んだ声で、
「では、楽しいゲームの第2ステージを始めましょう!」
と、高らかに宣言した。






Fin.






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