「瞬?」
名を呼んでも、どこからも返事が返ってこない。
キッチンにも瞬の姿はなく、ダイニングルームのテーブルには、最近 徐々にレパートリーが増えていた瞬の手になる朝食も並んでいなかった。
「瞬、どこだ」
瞬の名を呼ぶ自分の声があまりに不安げで、まるで見知らぬ場所で迷子になった子供のそれのようで、氷河は自分で自分の声に驚いてしまったのである。

瞬は、一人で外に出たことは、これまで一度もなかった。
だが、それも特段のルールに縛られてのことではなかったはず。
今日はたまたま一人で外に出たのかもしれない。
そう期待して――というより、氷河は他の可能性を考えたくなかった――氷河は瞬の帰りを待つことにしたのである。

一人 ぽつねんと4時間ほど。
正午に、氷河がセットした覚えのない時計のアラームが鳴った。
そのアラームを止めて、更に2時間、氷河は一人でいることに耐えた。
そして、その2時間が過ぎても、氷河は一人のままだった。

ベランダの向こうに広がる空は青く、雲はほとんどない。
だが、その空の片隅には 飛行機雲の残骸らしきものがあったので、人類が滅亡したというわけではなさそうである。
世界は何事もなかったかのように静かに存在し、地球も おそらくは昨日までと同じように回っているのだろうと、氷河は思わざるを得なかった。
昨日までと何も変わっていない世界に、だが 瞬の姿だけが見えないのだ。

その頃になって初めて、氷河は その可能性に思いを至らせることになったのである。
あれは夢だったのではないか。
自分は長い夢を見ていただけだったのではないかという可能性に。
夢の世界か想像の中ででもなければ、容姿から性格、知的レベルや身体の相性まで、あれほど自分の好みに合致した特別製の人間が存在するはずがない。
まして、その理想通りの人間が羽衣をまとった天女のように突然目の前に現われ、他人に好感を抱かれる要素の全くない男に恋情を抱いてくれるはずがないではないか。
夢か、想像の中でなければ。
あれは夢だったのだと考えるのが、自然で当然で妥当なのだ。

とはいえ、氷河は――氷河の身体は――瞬に触れ、瞬と交わった感覚、その歓喜を、鮮明に憶えていた。
それは、想像を絶する歓喜と快楽だった。
実際に経験したというのでなければ、あれほどの歓喜を人が味わえると考えることは、常人には無理なことのように思える。
何より、氷河の心は、瞬に出会う前と出会った後で、全く変わってしまっていた。
変わったからには、変わった原因、変えた誰かがいたはずである。
心は変わっているのに、変えた人がいないなどということがあるだろうか――。

「瞬」
その人の名を呼びながら ただじっと待っているだけの状態に耐え切れず、まもなく氷河は、夢遊病者のような足取りで、部屋の外に出た。
瞬と二人で見た時と同じように、外の世界には光があふれていた。
だが、すれ違う者たちが、氷河の連れに目を留めることはない。
いちごのパフェがあるカフェに入ると、氷河自身には見覚えのないウェイトレスが、
「今日はお一人ですか?」
と、首をかしげながら氷河に尋ねてきた。

では、確かに瞬はいたのだ。
瞬は、一人の孤独な男の心が生み出した、想像世界の住人ではない。
瞬は、確かに この世界に存在していたのだ。
確かに存在していたのに、消えてしまった――。

自己申告では“普通の人間”の瞬。
話すことは、冥府の王、人類の滅亡、亡くなった氷河の母の今――全く普通でなかった瞬。
瞬が本当にこの世界に存在していたというのなら、自分が今 存在している この世界自体が、不幸で孤独な男の心が創り出した幻想なのではないか――。
そうでなかったとしても――たとえ この世界が一人の男の想像の産物でなかったとしても――この世界が確かに存在する世界だったのだとしても、それが何だというのか。
氷河にとっては、瞬だけが、生きて存在する価値のある ただ一人の人間だった。
その人がいない世界など、想像の世界よりも無価値、しゃぼん玉に映る世界より儚く無意味なものでしかない――。

瞬のいない世界で、氷河は自分が生きている気がしなかった。
瞬がいなければ 自分は死んだも同然のものにすぎないと、氷河の心は感じていた。
その儚い世界にある小さなカフェで、氷河は一人でぼんやりとコーヒーを飲み、その儚い世界にある空虚な箱のようなマンションに帰る。
エントランスにいる警備員は いつも通りのポーカーフェイスで、スイッチが入ったロボットの お約束の動作のように『お帰りなさい』と意味のない音をエンドランスに響かせた。

色も音も単調で無彩色無機質なこの世界は いったい誰が創ったものなのだと、氷河は大声で叫びそうになったのである。
氷河がそうするのを止めてくれたのは、30階に着いたエレベーターのドアが開いた時、そこに立っていた、不思議な色と声の持ち主だった。
総天然色、有機的で温度のある美しい生き物が、氷河の側に駆けてくる。

「氷河、どこに行ってたの! 警備員さんがエントランスの中には入れてくれたんだけど、氷河がいないから部屋に入れなくて……。僕、30分もここで待ってたんだよ!」
「瞬……?」
まるで この世界から姿を消していたのは氷河の方だというかのように、瞬が氷河を見上げ、責めてくる。
その怒りは理不尽だと反駁することさえ、今の氷河にはできなかった。

「お……おまえは何を言っているんだ。まるで普通の人間のようなことを――。おまえは冥界と現世を行き来することのできる変な人間で――」
氷河の声が ほとんどかすれていること、それがなぜなのかということを、瞬は考えてもくれないらしい。
自分がたった今まで失踪者だったことにも、瞬は気付いていないようだった。
「僕が氷河のものになっちゃったから、ハーデスが力を貸してくれなくなったの」
自分が“普通の人間”のように キーがなければ氷河の部屋に入れなくなった理由を告げ、それから瞬は少し姿勢を正し、真面目な目をして氷河を見詰めてきた。

「ハーデスからの伝言です。『かつての約束は反故になった。約束されていた30数年間の寿命も消え失せた。馬鹿な事故に巻き込まれて冥界に来るようなことはするな。余の計画を台無しにしてくれた者に、余は当分会いたくない』」
「……神というより、意地っ張りで我儘な子供だな」
瞬が自分の手の届くところにいることを まだ実感できていない氷河が、ハーデスの伝言を聞いて ぼやく。
ハーデスは、我儘な子供のような神だが、約束は守る神でもあるらしい。
その点は評価してやってもいいと、氷河は思った。

「それから、氷河のお母様からの伝言」
まだ完全には いつもの自分のペースとレベルに復帰できていなかった氷河の心身が緊張する。
瞬は、ハーデスの伝言を伝えた時より はるかに優しい声で、かつては氷河の唯一の希望であった人の言葉を、氷河に伝えてくれた。
「『母のために幸せでいなければならないと気負う必要はないけれど、絶望の淵に追い込まれた時、希望を失うことだけはしないで』」
そう言って、瞬が、氷河の頬に手で触れてくる。
すべての母親がそうであるように、瞬の手の感触は優しく温かかった。

「それから、いつまでも愛していると伝えてと言われました」
母は今でも彼女の息子を愛してくれている。
瞬は生きている。
この世界に存在する。
その手は優しく温かい。
様々なことを確かめ、噛みしめるように、氷河は頷いた。

瞬は生きて、この世界に存在する。
瞬の手は優しく温かい。
瞬の瞳は希望をたたえ、明るく輝いている。
瞬は、瞬がこの世界にいなかった間、自分が一人の男を絶望の淵に追い詰めていたことに気付いていない。
この鈍感で 罪のない 綺麗な子供に、どんな言葉で嫌味を言い、叱ってやればいいのか――。

氷河の心と思考と感情は、徐々に普段のペースを取り戻しつつあった。
否、その力と速さと鋭敏は、以前より高まっていた。
「おまえからの伝言は」
「僕自身と、これ」
そう言って、瞬がエレベーター脇の単脚テーブルの上に置かれている一冊の本を指し示した。
それは大判の料理本で、『基本の家庭料理・超簡単レシピ』から『本格家庭料理の調理技術 上級者編』へとグレードアップしていた。
瞬は軽い朝食メニューだけでなく、ディナーを用意できるレベルにまで料理の腕を磨くつもりでいるらしい。

「僕、今度こそ、ほんとにほんとの普通の人間として、ここに来ました。いっぱい食べるし、いっぱい眠ると思うけど――僕、氷河と一緒にいてもいいかな……」
「――」
この鈍感で 罪のない 綺麗な子供に、どんな言葉で嫌味を言い、叱ってやろうかと思い巡らせていた幾つもの計画を、忘れそうになる。
代わりに、氷河の胸中には、この鈍感で 罪のない綺麗で可愛い恋人を、自分は失わずに済んだのだ――という思いが充溢してきていた。
が、ここで、その事実を涙を流して喜んでしまったりしたら、無断で家を出ていき同居人に心配をかけた不良家族への示しがつかない。

「嘘をつけ」
氷河は、わざと むっとした顔を作り、瞬を下目使いに睨みつけた。
「え?」
それは想定外の反応だったらしく、瞬は、きょとんとした目で不機嫌そうな氷河の顔を見上げてきた。

瞬が生きて、自分の側にいる。
その事実を泣きたいほど嬉しく思っている自分を 瞬に知られてしまわないために、氷河は あえて怒気を含んだ声で言ったのである。
「普通の人間はこんなに可愛くない」
そうして、氷河は、彼の生きている希望を強く抱きしめた。






Fin.






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